ラベル

2025年7月24日木曜日

甘い煉瓦の家・リチャ正

    甘い煉瓦の家




 ――横浜。

 これまでホームグラウンドだった東京銀座を離れれば、リチャードが満足するようなデザートにはなかなか巡り会えないのでは……。

 と雇われ秘書の俺は危惧していた。あの東京銀座から新宿のデパ地下を制覇し、商談でなくデザート談義をしに来るおばさま方にも一目置かれているリチャードだ。そんな甘味大王が、横浜で満足できるのだろうか?

 あ、もちろん、横浜にだって美味しいお菓子はたくさんあるだろう。スリランカの素朴なお菓子だってリチャードは喜んでいた。

 デザートに貴賤なし。

 それは分かっている。

 が、リチャードが以前、『新宿のデパ地下はエデンですね』とうっとりとした目つきで言っていたのを知っている身としては、横浜に拠点を置くのは少し気が引けるのだ。

「なあ、リチャードはエトランジェがメインだよな」

 横浜に着いた初日、まだ前住人の気配が漂うマンションで荷ほどきをしながら訊ねれば、ソファに消臭剤をぷしゅぷしゅとかけながらリチャードが答える。

「はい、その予定です。外での商談は正義にお任せします」

「ならおやつ問題はまるっと解決だな。あー、でも俺が買いだしに行きたかったなあ。この時期だと桜のデザートがあって……、綺麗なんだよなー、ザ・日本って感じで」

「何の話をしているのですか?」

 窓を開け、空気を入れ換えながらリチャードは言い、今度はカーテンに消臭剤をぷしゅぷしゅやり始めた。この調子だとドラッグストアで買ってきた消臭剤は一日で使い切られるだろう。ジェフリーが見たらショックを受けそうな光景だ。

「俺、横浜は詳しくないんだよ」

「要点を早く言いなさい」

「あー……ええと……」俺は頬を掻く。「デザートの買い出し、俺にもさせてくれ! 横浜にお前が気に入るのがあるかは分からないけどっ!」

 と、手を合わせて拝めば、消臭に勤しんでいたリチャードの動きがぴたっと止まった。そして大きく深呼吸すると俺の方にやって来て、軽く頭をチョップされる。 

「このたわけ」

「へ?」

「私のデザート係を自認するのは構いません。が、それならあなたが探せ。次のステップに進むいい頃合いです」

 デザートのお使いにステップなんてあったのか、と言えばまたチョップされるだろう。それにリチャードの言うとおりでもある。俺だって二十歳のときからリチャードのデザート係をしてきた。リチャードの好みは知り尽くしている、と自認している。

「明日、私はエトランジェに午前中だけ顔を出しますから、その間にあなたに横浜でのデザートの買い出しをお願いします。日本に帰ってきたお祝いをしましょう」

「分かった! しっかりリサーチして買ってくるよ」

 と、こんなわけで――、俺の横浜デザート探しははじまった。

 観光地とだけあって、銘菓は種類豊富だし、訪れる観光客狙いのパティスリーも多い。ただ個人店は冒険だ。基本的に人気店にハズレ無しなのだが、タイミングによっては売り切れることもある。俺は仕事の合間に買いに行くから、できれば『行ったら必ず買える』のがいい。そしてあんまり食べたことが無いようなデザートがいい。

「……これだ」

 リチャードがとっくの昔に自室に引っ込み、夢の国に旅立っているころ、これぞという洋菓子を俺は発見した。即座にブクマ。明日はオフだから、朝一で行こう。

(リチャードも明日は休みなのに、店に顔を出すのは律儀だよな。まあ、懐かしさもあるよな)

 俺も一緒について行きたかったが、そうなるとふたりで銀座のパーラーでぼうっとしてしまいそうだ。それに今回は俺の方が事情があってやることが多い。ささっと買えれば良いのだが。

「よし、俺も寝よ」

 この日の夢見は最悪だった。お目当ての店の行列がいつまで経っても終わらないのだ。目覚めてからもその懸念は消えず、開店する三十分前には店前についていた。

「よかった……並んで、ない」

 観光客こそちらほらいるが、そんな列を成すほどではない。安堵から周辺をぐるっと見て回り、開店と共に店に入る。そして……。

「こんな簡単に手に入るとは。やっぱ日本はすごい」

 ――海外暮らしを経験してから痛感するが、『時間通りに店が開く』『売り物が揃っている』ってものすごいことなのだ。テストに出るな、これは。

 それからは急いで帰宅する。要冷蔵だと言われたのだ。そこで冷蔵庫の特等席に買ってきた洋菓子をしまう。

 リチャードの反応を楽しみにしつつ、昨日の荷ほどきを再開すれば、当の本人から連絡が入った。

『もう帰ります。昼飯も家で食べます』

 簡素な連絡はいつものことだが、ちょっと心配になった。てっきりお気に入りの店で食って帰ると思っていたからだ。

「まあ、リチャードも疲れてるか」

 そんなときは家でゆっくり食べるに限る。と、急いで米を仕掛けてスイッチオン。近くのスーパーでぱぱっと買い出しをして、簡単な昼食――卵焼きにウィンナー、ゆでたブロッコリー、そして最後はほかほかのおにぎりだ! おにぎりさえあれば、どんな食卓も豪勢さ三割増しに見えるのは俺の思い込みだろうか?

 と、最後のおにぎりを握ったとき、リチャードが戻ってきた。グッドタイミングだった。冷えたおにぎりも美味いが、温かいおにぎりはもっと美味い。リチャードに座って座ってと急かし、食卓に作ったものを並べる。

「わざわざ重箱に詰めたのですか」

「雰囲気出るだろ? こういうのは日本ならではだし」

 いただきます、とふたり声を合わせて言い、食べはじめる。米の味が身体にしみる。俺はどこの国の料理も美味しく頂けるが、やはり祖国の味は美味い。美味すぎる。リチャードはおにぎりを片手で持って食べつつ、神速の箸さばきで口の中におかずを放り込んでいた。まるでブラックホールみたいな食いっぷりだった。

「もっと作ればよかったかな?」

「デザートがあるでしょう」

 男ふたりで三合をぺろっと平らげるのは珍しくない、が、十五分かそこらで空にするのはおかしい。リチャードも俺も日本の米の味に飢えていたのだろう、きっと。俺は食器を下げると、咳払いして言った。

「では不詳、中田正義が選んできたデザートを発表致します。それは――、こちらです」

 と、冷蔵庫から出したデザートを箱のまま皿に載せ、リチャードの前に置いた。このデザートは箱から見て欲しいと思ったのだ。

「ほう、横濱煉瓦……フォンダンショコラですね」

 と、リチャードは興味津々といった面持ちで小箱を持ち上げると、まるで繊細なジュエリーを扱うかのように箱を開けた。そして中のフォンダンショコラを皿にあけ、フォークで感触を楽しむように切り、一かけ口に運ぶ。

 ――緊張の一瞬。

 かの甘味大王を満足させられるのか、と心臓をばくばくさせていた俺の心配はすぐに霧散した。リチャードは一口目を無言のまま味わうと、そのまま二口目に進んだ。何も言わずにただ横濱煉瓦を味わうことに集中している。と思いきや、リチャードの足がぱたぱたと動いているのが振動で伝わってくる。

 これは訊かずとも分かる。

 リチャードの審査、合格だっ!

 ほっとした気持ちでロイヤルミルクティーを入れ、甘い煉瓦を堪能するリチャードにサーブする。待っていましたと言わんばかりにリチャードはロイヤルミルクティーを飲み、法悦のため息をつく。

「この煉瓦で家を作ったら、さぞ甘い家でしょうね」

「冬なら作れるぞ。あ、クリスマスの時期にいいかも」

「私も協力しましょう。設計図ぐらいは引けます」

「お前が引いたら、家でなくてキャッスルができそうだ」

「いいではありませんか。たくさん食べられて」

「さぞかし食べがいのある城だよ」と俺が笑いながら言えば、リチャードはしれっとこんなことを言って俺にキスをした。

「あなたほど食べがいのあるデザートはありませんでしたよ」


 ――日本帰国二日目の午後は、ベッドで過ごすことになった。

 一日ぶりのリチャードの腕の中は、甘いチョコレートの香りがした。

2025年7月21日月曜日

夏休みのマイリトルパピー・リチャ正

「静かだなあ……」

 みのるくんは友達と朝一で出かけ(夏休みっていいよな)、俺は俺で、ジローとサブローの散歩からこまこました家事もすべて済ませた。あとはリチャードが起きてきて、朝食を食ってくれたらいいのだが……。

 ちらり、とリチャードの部屋がある方向を見、俺は頭をかいた。

 なんというか、こう、起きてくる気配がない。それなりに長い年月一緒に過ごしていると分かってくるもんだ。

(朝、弱いもんなぁ)

 重度の低血圧、そのせいで寝起きはすこぶる悪く、幽鬼のような顔をしていることもある。だからか知らないが、夜には滅法強い。というか、本調子が出てくるのが昼過ぎで、一般的な人よりピークポイントが違うだけかもしれない。

 しかしそろそろ十時だ。

 今日は休みで、寝過ごしてもらってもちろんいいのだが、あまり寝過ぎると明日に響く。そろそろ起こすか、と手持ち無沙汰から手にした新聞をテーブルに置き、リチャードの部屋に向かう。ほんの十数歩でつく距離だが、いやに心臓が高鳴った。

 深呼吸、そしてまずはノック。

 コンコン、という音がよく響く。まるで空の樽でも叩いているかのようだ。そしてこんな音で起きるほどリチャードの眠りは浅くない。

「入るぞ……」

 小さな声でいいつつ、ドアを押し開く。薄暗い。完全遮光カーテンのはずだが、それでも隙間から夏特有のギラついた光が入りこんでいる。そしてこんな薄闇で見るリチャードは、まるで物語の世界から抜け出てきた王子のように美しかった。思わず見とれそうになって、ふるふると頭を振る。

「リチャード、起きろ。さすがにもういい時間だ」

 と、肩を軽く揺さぶれば、くぐもった声が上がる。おい、とさらに強く揺さぶると、手首をいきなり掴まれた。そしてぐいと引っ張られた。

「……リトルパピー」

「ちょ、おい! 寝ぼけているのか?」

「……パピー」

 駄目だ。子犬にたくさん囲まれている夢でも見ているに違いない。そんなときに起こしたら事だ。数日は恨み言を言われる。今日は好きなだけ寝かせよう、と俺がリチャードの手を剥がそうとしたときだった。

「来て下さい」

 と、リチャードにベッドに引っ張り込まれた。そしてそのままキスの嵐だ。ガトリングガンだ。あまりの強烈さに頭がクラクラする。その隙を逃さないと、リチャードにのし掛かられてまた肌という肌に唇で触れられる。

「ま、まて! 嬉しいけど、おまえ、夢の中で子犬が百匹ぐらい出てきているのか!?」

「はい? 違いますよ。あなたにしたいだけです」と今度はとびきり濃厚なのをぶちかまされる。これまでリチャードとキスを幾度となくしてきたけれど、今日のはなんだか、とびきりドカンときた。最後にリチャードは首元に顔をうずめてふんふんと匂いを嗅いでくる。

「ふう、あなたの匂いを嗅ぐとほっとしますよ」

 と、耳元で囁かれる。どくん、どくんとリチャードの心臓の音が伝わってきて、そこに俺の鼓動も重なる。肌がしめっていくのが自分でも分かった。

「……俺も。お前はいい匂いがするよな。誰とも違う。香水のおかげかな」

 そう言ってリチャードの背中に手を回せば、

「あなたもですよ」

 と、甘ったるい声と共に囁かれて身体の芯が熱くなる。これはマズい。俺は努めて声をからりとさせて言った。

「ところで、そろそろ起きないか? もう十時過ぎだぞ。これで目が覚めただろ?」

「起きません」

 と、俺の首筋にも唇を押し当ててくる。

「おい、やめろって……!」

「止めません」

 するりとシャツの下にリチャードの手が入りこんでくる。息が詰まる。このままリチャードに身を任せるか……。


 ――ピンポーン。


 このマンションに似つかわしい高級な音色と共に、俺は一気に現実に引き戻される。リチャードの下から抜け出して、襟元を整えてインターフォンに出た。


『お届け物ですー』

「はーい」


 そう明るい声で返事をしながら、背中にのし掛かってくるリチャードの背中をぽんぽんと撫で、ごく小さな声で言った。


「また、夜に。今日はみのるくん泊まりだから」





2025年7月19日土曜日

アイスクリームはキスの味・リチャ正



 ――限定品。

 なんたる魅惑的な響きでしょうか!

(と、リチャードが熱く語ったんだよな……びっくりした……)

 世をすべて見通しているような顔をして、その実、甘味に目はなく、ちょいとばかり臆病で、しかし若干兄貴風を吹かせてくる(あ、怒られるな)、俺の雇い主は、現在事務所で缶詰だ。これは珍しい。そこで俺が今、コンビニに向かっている。限定品のアイスを求めて。

(問屋がこれまでずっと『売る』と言ってた石が、いきなり『駄目。他が高く買うと言ってきた』と言ってきたら、そらね……)

 この世界ではよくあることではある。リチャードは世界一のセールスマンだが、超大手のブランドと競合すれば負ける。そもそも超大手ブランドと、エトランジェとでは、提供するジュエリーに差がある。

 ブランド会社は、その高い宝飾技術とジェムの質の高さ、そしてブランドの歴史をひっくるめてジュエリーに込めている。値段は数千万クラスがゴロゴロ。宝石で天体図を表現した時計を売り出している某ブランドの腕時計は、『誰が買うんだ』と絶句するほどの高値だが、まあ、いるのだ。

 一方、エトランジェでは個人の思いを優先する。セミオーダーもフルオーダーも可能だ。こんなのは大手ブランドでは超お得意様でしか受けてくれない。俺は個人の願いを叶えるというエトランジェの姿勢が好きだ。そしてリチャードの顧客に寄り添う接客を心から尊敬している。そして、エトランジェが細やかな接客ができるのも、問屋との強い繋がりがあるからで、それをこんな風にぶった切られてはたまらない。

 こうなると俺の出る幕はない。そこの問屋はエトランジェにとって生命線だからだ。たぶん、手打ちは取引価格のアップだろう。ここをペーペーの俺に任せられても、丁寧に辞退する。さすがにここはリチャードの出番だ。

「えーと、エイトイレブン限定品だよな」

 某有名アイスクリームとのコラボで、ラムレーズン。そんなの通年で売っているじゃないか、と一瞬思ったが、リチャードが言うには、使われている洋酒やレーズンが違うらしい。甘味大王らしく、そこのチェックを怠らないところが面白い。

 で、一軒目。

 アイス売り場を見て目が点になった。

「……ない」

 コラボを示すポップはあるが、アイスは払底している。念のため店員に確認したら「売り切れです」と申し訳なさそうに言われてしまう。昼過ぎだよな、いま、と思わず時計を確認して、俺は額を押さえた。

 ――これは、長い戦いになるかもしれない。

 この俺の予想は嫌なことに当たった。

 二軒目、三軒目、四軒目までない。嘘だろと言うぐらいない。たぶん人口過密な東京という土地柄もあるだろう。いっそのこと、横浜で探した方が良かったかも……と思った五軒目で、ようやく巡り会う。

(ラムレーズン様!!)

 手を伸ばそうとしたそのとき、ぱっとそのアイスが消えた。びっくりして思わず目を上げれば、スーツ姿の女性と目が合った。彼女の手にはおにぎりやサラダがある。

「あ、ごめんなさい」

「いえいえ、どうぞ。そちらが先でしたので」

 俺にはとても、OLの楽しみを奪うなんてできない。それに先に取ったのはあちらだし、と理屈をつけて涼しい顔にてコンビニを出、灼熱のアスファルトに膝をつきそうになる。


 やっちゃった――……。

 

 もう思い浮かぶエイトイレブンはない。横浜で探そう。そう頭を切り替えようとしたが、がっくりとくる。


「正義、買えましたか?」と目で聞いてくる。俺は左右に首を振った。そしてスマホに打ち込んで見せた。


『ラス一見つけたけど、他の人に譲った。そっちの人が先だったし。横浜で探そう。代わりにノーマルラムレーズンを買ってきた。冷蔵庫にいれとくな』


 するとリチャードは電話口に超早口で『少し待て』と言い、保留にする。そして――。


「今、食べます。開けてください」

「え、いま? 電話しながら食うのか、器用だな」

 ノーマルのラムレーズンであることにお咎めがないのはありがたい。カップふたを外し、スプーンをキッチンから持ってきて渡そうとすれば、リチャードは電話に戻っていた。そこで静かにアイスとスプーンをデスクに置こうとすれば、目で呼ばれた。そしてアイスとスプーンを交互に見る。

(あ、食わせろってことね)

 片手は電話機で塞がっていて食べづらいのだろう。俺が一口分すくって食わせようとすれば、ぷいと顔を背けられる。しかも何度も。そんなことをしながらもペラペラ喋っているのはさすがとしか言いようがないが、俺としてはたまったもんじゃない。

「おい、溶けるって。これは俺が食うからな」

 と、俺がひょいと食えば、ついでにリチャードの唇も食いついてきた。熱く乾いた感触に心臓が飛びはねる。最後にとどめとばかりに舐められて、背筋に心地よいゾワゾワ感が走った。

「えぇ、限定品は美味しいですね」

「は、え、これは普通の」

「あなたというトッピング付きのね」とさらりと言ってリチャードは電話に戻った。さっきよりもずっと絶好調なしゃべりっぷりで。俺はぷるぷると頭を振ると、アイスにふたをして冷凍庫に突っ込んだ。これ以上一緒にいたらとんでもないことになる!


 その後、商談が上手くまとまったのは言うまでもない。

 ついでに横浜で限定ラムレーズンアイスも見つかった。

 そしてもちろんというか、やっぱり俺が食わせる役目になって、そこから先は……言えないっ! キスの重みを分かってるのか、あいつは!(分かっていてやってるに決まってる)

2025年7月18日金曜日

マイリトルパピー・リチャ正

  ――今日も良い天気だ!

 ベランダに洗濯物を干し終え、部屋に戻ってくるとソファでリチャードは新聞を読んでいた。お茶は空だ。お代わりを所望されるかな、と足音を殺してキッチンに向かっていれば、

「マイリトルパピー」

 と、音楽のようにリチャードが呟いた。思わず立ち止まって聞き惚れてしまうほど美しい発音だった。こんな風に呼ばれたら、即座に尻尾を振って飛びついてしまうだろう。そうしたら待てだと叱られるのだ。

(しかしマイリトルパピーって……?)

 新聞にそんな記事があったのだろうか?

 根っからの犬好きであるリチャードは、新聞でもネットでも犬関係の記事を読むのが大好きだ。動画の履歴なんかほぼ犬で埋まっているんじゃないんだろうかと思う。

「マイリトルパピー」

 もう一度リチャードが言う。リチャードが新聞から本に持ち替えている。あの本も犬関係か? それとも……ジローとサブローのことを呼んでいるのだろうか? それとも犬成分が足りなさすぎて、恋しさ余って呼んでいるのだろうか? その手の抑制の効くリチャードにしては珍しい、と首をかしげつつ訊ねる。

「リチャード、ジローとサブローはまだ検疫中だよ。それともイマジナリードッグでも見えてる?」

「マイリトルパピー」

 今度は俺の目を真っ直ぐに見て言ってきた。俺の頭の上にイマジナリードッグが載っかっているのか? 目だけ上げて見つめれば――当然だが天井しか見えなかった――、リチャードが甘さをまぶした話し声で告げる。

「あなたのことですよ、正義」

「は、俺?」

 と自分で自分を指させば、リチャードは大きく頷いた。そしてさも当然のように言い放った。

「マイリトルパピーはあなたしかいません」

「あのさ、俺、結構デカいと思うんだけど……?」

 犬にたとえるなら柴犬どころかゴールデンレトリバーぐらいはあるだろう。たぶん。するとリチャードは目を細め、珊瑚色の唇で呟く。

「私にとってはマイリトルパピーです。さあおいで、マイリトルパピー。お茶はあとでいいですから」

 こう言われて飛びつかない犬がいるだろうか?

 俺はキッチンから飛び出すと、子犬のような気持ちでリチャードに抱きついた。俺の腕の中でリチャードが肩をすぼめておかしそうに言う。

「体格だけはリトルパピーのそれではありませんね」

「でないとお前を抱きしめられないよ」

「おやおや、これで抱きしめていると。私が手本を見せましょうか?」とまるでぬいぐるみに頬ずりするようにリチャードが顔を寄せ、額に口づけをする。思わずぎゃあと声が出て、リチャードがくくっと笑った。

「今さらでしょう。私のかわいいマイリトルパピー、どうしてあなたはこんなに愛らしいのでしょう?」

「いやいや、寿命が十年縮んで三十年伸びたぞ!」

「その理屈でいくと、キスをするだけ寿命が延びますか?」

 とんでもなリチャードの発言に、一瞬、朝のロイヤルミルクティーにブランデーでも垂らしてしまったかと思ったが、これが結構、割と平常運転だったことを思い出した。リチャードは吹っ切れると強いのだ。本人もそれを分かってか、あえて悩んでいるのでは、と思うことが俺はままある。

 まあとにかく、いま、みのるくんが学校に行ってくれていて心底良かったと思った。

 だって、俺もリチャードにキスをしまくって寿命を延ばしたいと思ったもんな。

 そして、リチャードもそう思ってるんだ。



2025年7月17日木曜日

国主は甘いものがお好き・リチャ正(2)



 ――夢みたいな一日だったな。

 別れ際に渡された術符を指先でつまみ、正義はほうと溜息をついた。リチャードと行動していたのは半日のさらに半分程度だろう。が、まるで幻想でも見ていたような気がする。

(あいつ、綺麗すぎるんだよ!)

 龍の化身ならさもありなん、と納得しようとしたが、それを遙かに飛び越えていた。動く美の概念とでもいうか……。少なくとも正義はリチャードより美しい存在を見たことがない。身にまとった豪奢な縫い取りの長衣が霞むほどだ。リチャードにまた会いたいか? と問われれば、もちろん会いたいのだが……。

「どう考えても気まぐれだろ。使いやすそうな下っ端だから呼び出したんだ……ってあたっ!」

「大きな独り言だな」

 ぼん、と書類綴を正義の頭に載せて上司が正義を睨み付ける。周囲の視線を感じ、正義が愛想笑いを浮かべれば、もう一度叩かれた。

「二発は卑怯ですよっ!」

 思わず文句を言えば、やれやれと上司は正義の机の書類の束を置いた。

「さっきから一時間、術符を眺めていたぞ。ほら、暇だろうから追加で仕事だ。今日中に仕上げろよ」

「えぇーっ!?」

 時計は十五時過ぎを指し、終業時間までは三時間といったところか。それでこの量は……、確実に残業行きだろう。今日は早く帰って、ちょっと凝った夕食でも作ろうかと思っていたのに。恨めしく上司を見やれば、

「お前がぼんやりしているからだ。他の奴らはもう取りかかってるぞ。ったく、月末なんだから気を抜くなよ」

 と、追加で説教を食らってしまう。上司の言うことはもっともだ。正義は術符を大切に鞄にしまい込むと、渡された仕事に取り組みだしたのだった。



 それから数時間後……。

「終わった終わった!」

 背伸びして首を回せば、所内はすでに暗い。ぽつぽつと他の机にも光は灯っていることに安堵しつつ、正義は帰り支度をする。

「ったく、あんなにたくさん渡すなよなあ」

 ぶうぶう言いながら書類を上司の机に置き、机の明かりを消して鞄を持つ。明るい時間はごちゃついた役所内もなんだか賑やかに見えるのだが、暗い時間みると薄気味悪い。整理整頓をせねば、と思うのだが、こんな東の最果ての役所でもなかなか忙しい。それもこれも、交通の要所であるカヌマを抱えていて、常に積み荷の報告確認が求められるからだが。

「でも、文句を言えるだけ幸運だよな」

 月が煌々と照らす帰り道、正義はぽつりと呟く。

 何の後ろ盾もない自分が、登用試験を突破して、こうやって役所に採用された。同僚には「いくら積んだんだ!?」と変な驚き方をされた。正義が役人になるなんて、微塵も思っていなかったのだろう。当たり前だが、袖の下を渡すような金はない。試験一点突破だ。しかもこれ、たまたま古い過去問でやったところが出たという幸運さ加減だったりする。

「俺の仕事はアズマに住む市民に奉仕すること!」

 そう、決して国父たる龍、リチャードに仕えることではない。もっとも、引きの目線で見れば、回り回って正義もリチャードに仕えている流れになるのだろうが、そういうことではない。自分がもっと良い家の出で、頭も良ければ、中央政府の登用試験を受けるという手もあったが、

「今さらだよな……」

 リチャードにもうひと目だけ会いたい、という理由だけで、いまの仕事をすべて投げ打つなんて、できそうにない。もう二十八歳だし、気をつけないとやり直しが利かなくなる年だ。先輩たちにも口酸っぱくして言われている。『嫁選びは間違えるな』と。

 だがここで、正義にはもう一言つくのだ。

『お前なら婿にいける。家事全般できるから』

「それだけで婿に行けるなら苦労しないっての」

 しかも家事全般を引き受けて、さらに役所仕事はさすがに……せめて家事折半で、と思いながら集合住宅の階段を上り、自宅に入って電気をつける。

 すると、

「お帰りなさい。遅かったのですね」

 と、涼をはらんだ声が奥から飛んで来て、正義は肝を潰しかけた。靴も脱がずに板張りの台所を突っ切り、畳敷きの居間をのぞく。

「こんばんは、お邪魔しています」

 小さく金色の頭が下がる。彼が頭を動かすたび、しゃらしゃらと綺麗な音を立てているような気さえする。その乳白の肌からは蜜でも垂れてきそうだ。

「……は、え、どちらさん……」

 驚きから口走れば、なぜか思い切り頬を引っ張られた。痛い。おかげで正義も多少なりともしゃっきりしたのだが。

「リチャード、だよな?」

 そうだ、とでも言いたげにリチャードは大きく頷く。

「何呆けた顔をしているのです。夕食でしたら持ってきました。靴を脱いできたらいかがです?」

 と、彼は目線を落とす。正義はぎゃっと飛び上がって玄関まで戻り、靴を脱いだ。この辺りはまだ石畳で舗装されていないので、靴がどうしても砂っぽくなる。雑巾で台所を拭き上げ、改めて居間に正座するリチャードの前に正義も姿勢を正して座る。

「ほ、ほんもの?」

「生憎、私は国父を語る存在には出会ったことがありませんね」

「だよな……って違う! また甘いもん食いたくて出てきたのか? 苺大福ならもう時期が終わったぞ。次はモモだ」

「モモ、いいですね。どこの地域が美味しいですか? できれば甘味だとなお良しですが」

「だったら」とまで言って正義は目を怒らせた。「そうじゃない。なんでまた俺の家に? お前は国父だろう。こんなところで油を売っていていいのか?」

「いえ、あなたを心配しまして。降格などの憂き目にあってませんか?」

 予想外の質問に、正義は机に突っ伏しそうになった。そんなこと、部下に報告でもあげさせればすぐに分かる。なのにわざわざ来た。それってつまり……。

「ば、ばかじゃないのか!?」

「……ほう」

 夜空をうつしこんだような瞳が、すっと細められる。長い睫の影が頬に落ちて、いやにきつい表情となる。

「心配してきたというのに、その言い草はどういう了見か。釈明なさい」

「悪い! 悪かったって。びっくりしたんだよ。お前に会いたいと思ってたら、家にいたなんてさ」

 手を合わせて正義が謝れば、少し機嫌を直したかのようにリチャードが二度頷く。

「左様ですか。ではどうして術符で来なかったのですか? お茶を支度して待っていたというのに」

 どこかズレた発言に、正義は頭を振った。

「あのさ、できるわけないだろ。お前に術符を渡されて、いつでもどうぞ、なんて言われて行ける下っ端役人なんていないぞ」

「でも前回は来られたではありませんか」

「それは仕事があったからだ」

「ほう。では仕事であれば、来られるということですね」

 言質を取った、と明るい顔をするリチャードに、正義は釘を刺す。

「やめろって! お前に迷惑がかかる。俺はお前を見られるだけで大満足だ。俺には何の支障もない。だから帰って大丈夫だ」

 本当はもっと話したいし、ふたりで何かできたらと思う。

 だが望むだけ虚しい。相手は国父だ。日々国の難事で忙しいはずで、こうやって正義のもとに来るのも本当は別の意味で難しかったはずだ。

これならいっそ、自分が行けばよかった。リチャードの手を煩わせるぐらいなら、降格覚悟でリチャードのいる宮殿に術符で飛べば、簡単に望みが叶ったのに。自分の変なところで押しが弱いところに肩を落とせば、リチャードが顔を寄せてくる。

「私は見るだけでは満足しない」

 そしてリチャードが宣言する。

「あなたを雇いましょう。案内人として」

「はい?」

 さっきから話が飛びまくっている。というか、一気に詰められたのだろうか? その判断をする前にリチャードが顔をのぞき込んでくる。

(あ、駄目だ……)

 この顔に迫られると、思考が停止してしまう。ついつい見とれてしまうのだ。自分の顔面の威力を知っているのかと問い詰めたい。そのくらい暴力的な美しさなのだ。リチャードを前にすると、どんなことにも「はい、喜んで」と二つ返事で引き受けてしまいそうになる。

「あなたの上げる報告書は面白い。ですから、この目で見てみたいのですよ。あなたが報告書で知らせてきた地域を。苺大福はそのきっかけです。あなたの案内は次第点でした」

「そんなの、中央政府の皆で……というか次第点って、あたっ!」

 リチャードがいつの間にか手に持っていた扇子で額を打ってきた。今日はよく怒られる日だ。しかしなけなしの自制心を繰り出してこれとは、と正義は額をさする。

「報告者の視点で見て回りたいのです。分かりますか?」

「わ、分かったよ。俺の知っているのは、アズマの一部だけだけど」

「構いません。ふふ、こうやって市井に出るのは久しぶりです。護衛がうるさいのですよ。私ひとりでも大丈夫だというのに」

「お前は楽しそうだけど、俺はもうひやひやだよ」

 それに外で目線を集めるのは、その美貌のせいだ、と言ってやりたかったが、なんだか指摘してはいけない気がして正義は口をつぐむ。

「ご安心なさい。正式な書面を送りますから。さあ、食事にしましょう」とリチャードが手を打てば、居間のちゃぶ台に料理が現れた。炒飯に春巻き、青野菜炒めと疲れた身体にありがたい。

「すげえ! これも龍の力か」

「そんなところです。料理は違いますが」とやや苦々しげにリチャードは言った。術で料理が作れないのがそんなに悔しいのか、と内心思いつつ、「いただきます!」と勢いよく食べ始める。これまで食べたことがないような味付けだ。なんというか、澄んだ味わいなのだ。たぶんこれが『高級な味』なのだろう。

「よい食べっぷりですね。デザートも持ってきたかったのですが、大変に崩れやすく断念しまして。やはり持ってくるべきでした」

「あるぞ。ちょっと待っていてくれ」

 と、箸を置いて正義は台所に大股歩きで向かう。そして賞与をはたいて買った冷蔵庫を開け、中からバットを取り出す。冷えたマグカップには黄色のプリンが美味しそうに収まっている。

「うん、できてる。リチャード、はい」

「ん……、これは……」

「プリン。中央住まいなら見たことぐらいあるだろう? 卵の賞味期限が危なかったから、昨晩まとめて作ったんだよ。ま、中田家の味ってやつだな」

 お前の口に合うか分からないけど、とリチャードの前におもむろに置き、スプーンを渡す。するとリチャードはそろそろとプリンをすくい、一口食べた。そしてその場でぷるぷると震えだした。きゅうっと引き絞られた目は、「おいしい」と言っているような気がするが……。

「あなたを料理人として雇います。役人にするには勿体ない」

「待て待て、話が飛んでるぞ。俺はちょっとできる程度だよ」

「ですが、この味は」とリチャードはぱくぱくと食べ進める。そのうち、眦に光るものが浮かんでくる。正義は前のめりになって訊ねた。

「な、泣くほど上手かったのか!?」

「黙らっしゃい」

「はい」

 正義が素直に腰を落ち着け、食事を再開すれば、リチャードは軽く眦を拭って言った。

「……大変良きものをいただきました。ありがとうございます」

「どういたしまして」

 ――その後、正義も自家製のプリンを食べたが、いつも通りのシンプルな味わいだった。どこにリチャードの涙を誘うほどの感動があったのだろうか?

「不思議だ……」

「何も不思議ではありません。では、また後日会いましょう。おやすみなさい、正義」

「ああ、おやすみ」

 変な会話だな、と苦笑いするころには、リチャードの姿は煙のようにかき消えていた。龍ともなると、移動に術符すらいらないようだ。正義は満腹になった腹をさすりながらごろりと横になり、リチャードとの会話を反芻していたが、突然起き上がって頬を抓る。

「いってえ……」

 間違いなく現実のようだ。しかしあり得るのか? リチャードがわざわざこんなアパートに来て、案内人として雇うなどと言い出すなんて。それほど中央政府は堅苦しいのだろうか?

「リチャードが言えば、なんでも言うこと聞いてくれそうなのにな」

 まあ、色々事情があるのだろう。そういうことにしておく。でないと――、一晩中リチャードについて考えてしまいそうだから。

綺麗な朝・リチャ正

  ――歪んだ世界から逃げるように目が覚めた。

 こういう夢を見た日は寝起きが悪い。そもそも目覚めた瞬間スフレのようにふわっと消えるというのに、今日はしつこく脳裏に残っていて気持ちが悪い。こういう朝を押し流すにはロイヤルミルクティーを飲むに限るのだが……。

「おはよう、リチャード」

 と、私の欲求を見越していたかのように差し出さるマグカップに私はそろそろと手を伸ばす。温かい。ここが現実だと私へ訴えかける心地よい温度だった。そのまま一口飲んで、小さく息をつく。

「……おはよう」

「ヒドい声だな。風邪か?」

「いえ」

 否定したその声もひどく嗄れきっていて、自分でも驚く。どんな酷い夢を見たのかと思い返そうとしてやめた。正義の声で綺麗に濯がれた頭に悪いものを入れるものではない。

「おまえって寝起き、本当に悪いよな。ちゃんと眠れてるか?」

「そういうところが魅力では?」

 と頭からかぶった上掛けの隙間から目だけ出せば、正義はどぎまぎとした声を上げる。からかいがいがある、といえばそれまでだが、それ以上に面白みを感じているのが、ここ一年二年の心境である。だが、私以外が正義をつつきますのは面白くない。まるで子どもがオモチャを盗られたとわめくような幼稚な執着心を恥ずかしいと昔は思っていたが、今はそこまで思わなくなった。そういう執着心を取り戻せたことを誇らしく思ったほどだった。

 そして、私は今、こうやって同じ部屋で寝起きできるぐらいには正義を信用している。これを特別だと彼に教える気にはまだなれない。特別だと教えたら、その意味を知りたがるのが人というものだ。

 でも、私はなんとなく予感している。

 そう私が教えたところで、正義は「そうなんだ。良かったな、誰と一緒の部屋で寝れるようになって」と朗らかに笑うだけだろう。ある感情の一点を超えないこの気の至らなさは、一種の才能だ。

 そのくせ、

「そうだな。でも、本当に眠れないなら言ってくれよ。俺、自腹で部屋取るし……」

「いて下さい」

 いらない気遣いだけは一流である。私はマグカップをサイドテーブルへ載せると、くるまった上掛けの中でどうにか髪を整え、ベッドから抜け出す。そして窓から外を眺めた。高層ビルがジャングルのように生い茂り、朝日を受けてまぶしく輝いていた。

「綺麗ですね」

「ここから見る風景、いいよな。キラキラしててさ」

 長らく思いませんでしたが、と言いさして私は緩やかに首を振った。意味もなく正義の不安を煽るものではない。

「ありがとうございます」

「お茶なら気にしないでくれよ。いつものこと……」

「素晴らしいタイミングでした」

 まったく秘書のままにしておくには惜しいほどの、と内心で付け加えて、少し柔らかい温度になったロイヤルミルクティーに口を付ける。それは甘くて、少しだけ渋かった。


人魚の宝石・リチャ正

 


「やかましくて大変だったんでしょう。ありがとうございました」

「いえいえ、とてもいい子でしたよ」

 と、俺は商談中預かっていたお嬢さんをお母さんにかえした。滅多に無いことだが、こうやってエトランジェで子どもの相手を俺がすることがある。どうしても預け先の都合がつかなくて、でも、ジュエリーを見たい、という方だって世の中にはごまんといる。ただ、宝石店は大人の社交場と思われているから、子連れでは来づらいと思っている方も多い。

 だがご安心あれ!

 エトランジェは子連れのお客様にも対応可能だ。それが売りな店でもないけれど、予約時に告げてもらえたら対応するし、別に当日でも対応する。俺は別に子ども嫌いではない……が、相手がうまいとは言い切れない。子どもにも性格があるし、合う合わないはやっぱりある。

 でも今日の子は俺とフィーリングがよく合った。お、昔会ったことあったか? ぐらいの勢いで。

「ほら、お兄ちゃんに『ありがとう』は?」

 お母さんのジャケットを引っ張ったり、キョロキョロとしていた女の子は、俺の前へ真っ直ぐやってくると、「ありがとうございます」と頭を下げてきた。素直で気持ちいい挨拶に俺も頬がほころぶというものだ。

「どういたしまして。楽しかったよ」

 そしてお見送りかと思いきや、「お兄ちゃんにだけ見せてあげる」と女の子はワンピースのポケットから取り出した何かを手で包み、俺にだけ見えるように開いてみせた。どれどれと俺が覗き込めば、そこには大粒のサファイヤが転がっていた。思わず息を呑んだが、いやいやまさか、である。よくよく見ればプラスティック独特の鈍い照りがあった。

「人魚の宝石なんだよ。きれいでしょ。ママに買ってもらったの、テストで満点取ったから」

「うん、とってもきれいだね」

 と、俺は言った。話を合わせたんじゃない。本当に綺麗だと思ったのだ。いまどきのオモチャ、侮りがたしである。この俺の反応に気を良くしたのか、ポケットをごそごそとやって、次に出てきたのはプニプニとしたしずく型のマスコットだった。いま、学校でものすごく流行っているキャラクターらしい。

「へー、それもかわいいね。お兄ちゃんが子どものときにもあったよ。女子がこぞってランドセルにつけてたなあ」

 確か、クラスの女子が集まってわいわいと見ていたような覚えがある。なんだなんだと近寄ると、『男子はあっち言って!』とか追い払われてしまう。それでも聞き耳を立てていると、『これ可愛い!』『うーん、今月は厳しい……』『どっちがいいかなあ、あ、おそろいにする?』なんて声が聞こえてきたもんだ。俺が小学生だったとき流行っていたキャラクターが、いまもこうして愛されているのを見ると心がぽかぽかとしてくる。ほら、ちゃんと時代が続いているって感じがして、嬉しい。

「わたしもつけてるの! また今度見せてあげる!」

「おう、楽しみにしとく」

 そうこたえると、女の子はにかっと笑ってくれた。そしてお母さんの手を握って、ご機嫌マックスで帰っていった。しかしその一方で落ち込んでいる男がいた。

 ――リチャードである。

「私には見せていただけませんでしたね……」

「へ、気にしてたのか!?」

 リチャードは答えなかったがが、しょんぼりと冷めたロイヤルミルクティーをすすっている。本人は美しいだの綺麗だのと言い寄られるのは大の苦手で嫌がっているが、一方で、こういう対応――端から眼中にないと相手にされないこと――にはまったく慣れていない。全人類の八割が『美しい』と褒めそやすだろう美貌の持ち主なだけに、『鼻にも引っかけられない』という状況自体が滅多にないのだろう。平凡な顔面代表の俺から言わせてもらえば、『それが普通』である。

「まあ、小学生だからな。お前の良さはまだ分からないと思うよ」

 リチャードにこんな慰めの言葉をかけた人間が、これまでこの世にいただろうか? 俺はいま、全人類初の暴挙に出たのかもしれない……。

「左様ですか」

「次に会うときはリチャードにも見せてくれるって。あ、じゃあ検索してみるよ」

 キッチンに置いてあるスマホでささっと『人魚の宝石』と検索してみる。アニメか漫画のアイテムかと思いきや、ヒットしたのは女児向けのアクセサリーサイトだった。その年頃の女の子が好きそうなものがぎゅぎゅーっと詰まったアクセサリーや雑貨がぎっしりと掲載されている。これはもう女児の心わしづかみだ。クラスメイトの女子が集まって騒ぐはずである。

「リチャード、これこれ。俺も買おうかな……」

 と、画像をクリックして俺は目が飛び出した。そのお値段、なんと六〇円也。百均より安い。

「やっす……てか商売になるのか……」

 思わず突っ込んでしまう安さだった。そこへ一緒に見ていたリチャードも嘆息を漏らす。

「ほう、綺麗なものですね。大切にしたくなるのも分かります」

「お前に綺麗って言われて、喜んでるよ……人魚の宝石は……」

「何を言っているのですか、あなたは。私は見せてもらえなくて落ち込んでいるというのに」

 と、唇を尖らせていたリチャードだったけれども、その目は笑っていた。見た目は堅物そうなのに、こういうウィットに富んだところが俺は好きだと思うし、こんな俺と長く付き合ってこれた理由のひとつだと思う。そしてなにより、

「どれほど心を揺り動かすか。それがもし大切さの尺度だとしたら……あなたも大したものですよ」

 と、さらりと言ってのけるから、ますます好きになる。リチャードは俺に『私に綺麗だと言いすぎる』というが、お前だって大概『俺が大切だ』って暗に言い過ぎだと思う。

 分かってないと思ってるんだろうか?

 俺だってそこまで鈍い男じゃない。その証拠に、今日の夕飯にはプリンを作って出すか、と思いながら、俺は商談の終わった客間を片付けにかかったのだった。






2025年7月9日水曜日

薔薇に雨、指に時間、星に光を 第四話 薔薇に雨 リチャ正

  4 薔薇に雨



 ――薔薇に雨が降る。

 正義の頬から伝い落ちる涙が雨となって、薔薇にふりそそぐ。

 その雨を手で受け止めたくて正義の頬を抱く。薔薇にだけ涙を与えられるのは悔しかった。正義が生み出す感情はひとつも逃したくない。そんな私を指してか、正義はズルいと言った。それは否定しがたい事実だろう。

 ……客観的に見て、私ありきで正義の生活が成り立っている。彼の仕事も暮らしも、私がいるからこそ、の部分が大きいのだろう。

 が、その逆も然りだ。

 正義なしで私の今の暮らしは成り立たない。そのことを正義はすぐ忘れてしまう。どんな一流レストランよりも、正義の手料理を食べているときの方が幸せを私は感じている。そもそも、正義は知っているのだろうか、私がパーラーに通う回数が減っているということに。

 ――正義は私の幸福そのもの。

 今までそう伝えてきたつもりだったが、正義はずいぶんと目減りさせて受け取っていたらしい。どうしてだろうか。

 思い返せば学生時代からそうだった。私から発せられた言葉は、たいがい言葉通りに受け取ってもらえず、余分な意味合いを持たされることが多かった。その結果、トラブルが頻発した。現在、ビジネスが上手くいっているのが不思議なぐらい、私は他者との付き合いが下手だったし、いまもそう上手いほうではない。

 ではなぜビジネスに限って上手く行くのかといって、求めるものが私でなく宝石だからだ。それに私も自分のことでなければ、かなり気楽に話せた。だからと言って私の根本的な渇き――、人と親密になりたい、を癒やすには至らなかった。考えてみれば私自身が私と親密でないのだから、他者と付き合えるはずもない。自分の望みの分かっていない客が、望みのジュエリーを手に入れられないのと同じことだ。

 そして正義を雇った経緯は――、ヴィンスの助言なしには成しえなかっただろう。すべてが私の判断基準から外れている男。それが中田正義という人間だった。

 正義はこれまで出会ってきた人間とは何もかもが違っていた。

 私の言葉に一喜一憂するくせに、いざというときには受け取ろうとしない。もしくは相当にさっ引いて受け取る。思わず怒ってしまったこともあるぐらいだ。その癖は長らく一緒に過ごすことで徐々に取れていったのだが、いまの正義は大学生に返ってしまっていた。

 だから私は告げる。

「分かってなどいない。あなたの真意はあなたしか知り得ません。私は推察を口にしているまでのこと」

 そしてあなたに関してはよく当てているようで外す、とも。

 この言葉に誘発されて正義は私のことを好きだと言った。正義から「好き」と言われると、「綺麗」と言われるよりずっと嬉しかった。心がむずむずとして、温かくなる。「綺麗」は私が大勢に与えられるものだろうが、「好き」は与えられない。そうだろう? 宝石は大勢が見ても「美しい」と思う。でも「好き」かどうかはまた別の話だ。そして「好き」であっても色々条件がつく。色味、カラット数、カッティング、産地、加工方法、……、人間は差別を嫌がる割に、ランキングをつけるのが本当に好きだ。要は自分がこのランキングに入ってさえいなければエンターテインメントになるのだろう。そしてそのランキング上位を手にすることが誉れとなる。私のことを好きだという人間は、多くの場合、「私がとびきりの美人だから」という理由からだった。こういうのが好きな人間もいるだろう。だが私はまったく好きではなかった。むしろ、自分が人間扱いされていなくて不快なほどだった。

 だが、正義に限っては、「好き」と言われても嬉しいだけなのだ。

 そのような心境に至ったのは極めて分かりやすい。正義は私のことを否定することがほとんどなかった。むしろ口数の少ない私を理解しようとしていた。これも軽い衝撃だった。このとき、私は自分のおごりを知った。

 ――自分に話しかけてくる人間は、たいてい下心がある。

 正義が帰った後、彼の使っていたエプロンに向かって詫びを呟いたことすらある。今日までの経験を平たく言えば、正義のお陰で長年にわたって培ってきた人間不信が和らいだ、となるのだろう。この一文には余人には分かりかねるほどの気持ちと歴史が籠もっている。

 が、それは私にしか分からない。

 正義にだって分からないだろう。それどころか、「俺がしたことは大したことではない」ぐらいは言い出しそうだ。

 だから正義に花を買った。

 私が正義に渡したいと思ったから買い、渡したのだ。

「いくらでも調子に乗ればよろしい」

 この発言に正義はしばらく呆気にとられていたが、驚くべきところなどない。私に対してはいくらでも調子の乗ればよい。それだけ私の生活が充実する。正義と出会ってから、私の暮らしに色がつきだした。これまでは予測可能で、淡々と消費されるだけであった毎日が、一気に色づき、花開いたのだ。これは幾らお金を積んでも得られないもののひとつで、正義が作る食事の数々も、金と引き換えに手に入るものではなかった。

「いただきます。……今日はずいぶんたくさん作ったのですね。みのるさまのお友達でも来られたのですか?」

 食卓に並べられた皿数の多さに口元を緩ませれば、

「俺が作りたかっただけだよ」

 ミネラルウォーターの入ったグラスを揺すりながら正義がそっぽを向いた。その耳がわずかに朱に染まっている。薔薇に降らした雨に免じて、それ以上の追求は止めておくことにしよう。その代わりにこう告げる。

「少し、あなたについて分かったことがあります」

「俺について?」

 不意に占い師に未来を言い当てられる。そんな怯えが正義から漂う。私は気にせず続けた。

「軽はずみな言動です。私が花束を買った経緯も、単純に買いたかっただけなのです。軽はずみでしょう」

「一瞬、記念日だったっけ、て思ったよ。何の記念日ってなるな」

 正義がくしゃっと笑う。その顔を見た瞬間、腹にこもっていた力が緩んだのを感じた。正義は分かっているのだろうか? あなたが辛そうな顔をしていると、私も辛くなる。そう伝えれば喜ぶのではなく、責任を感じ出すのが正義だから、言葉にはしない。

「私が花を買った記念日です。日本に来て、個人的に花を買ったのははじめてです」

 正義が水を噴き出した。そして激しく咽せる。そんなに驚くことだろうか? 私の暮らしぶりを知っていれば、納得できそうなものだが。

「あ、でも日本でなければ、買ったことあるってことだよな。うん! お前が花を買ったことないなんて考えられないよ」

 と、口元をティッシュで拭いながら正義は言った。

「あなたはこれまで買ったことは?」

「ちょっと待ってくれ。真剣に考える」

 そして正義は腕を組み、うんうんと唸りだした。私が覚えている限り、正義がエトランジェに来てから誰かに花を買ったという話は聞いた覚えがない。恋愛に関しては奥手も奥手な正義が、こうも私に好意を示していること自体がイレギュラーだ、とふと気がつき、顔がにやけそうになる。同性という気楽さだけで、ここまで示せるものだろうか?

「ない。ないです。お見舞いではあったけど、それはノーカンで」

「どなた相手かに寄りますね」

「空手の先輩後輩だよ。ノーカンだろ」

「確かに」

 そして目を見合わせて笑い合う。

「リチャードこそたくさん買ってきただろ?」

「私が浮名を流せるほどの気概の持ち主でしたら、違う人生を歩んでいますよ」

「それはイヤだ」

 テーブルを手で叩き、しまったとばつの悪そうに耳の後ろをかいてから正義は続けた。

「俺はリチャードに会えて、文字通り人生が変わったんだ。こういうと重たく感じるよな。でも本当のことだ。俺の人生は――……、こう、あんまり、パッとしないまま終わると思ってた。だから、なんかおこがましいけど、俺もみのるくんにとって……そういう存在になれたらと思うんだよ。たったひとりの人間との出会いで、人生が一変することもある。そうだろ?」

 私は頷いた。この返事に言葉は相応しくないと思ったのだ。

 私は言語をこよなく愛しているが――、一方で不自由だとも感じている。同じ言葉を話していても、まったく異なる話をしていることはよくあることだ。そしてそれが誤解や喧嘩に繋がっていくことも、またよく知っていた。

「ならカッコをつけるのをおやめなさい。あまり気張りすぎると続きませんよ」

「つけてないって。弁当は俺の趣味でやってるだけだし」

「そのほうが重いですよ」

「えーっ!?」

 そうかなそうかな、とブツブツ繰り返して言う正義を眺めつつ、私は夕食を堪能する。どれがメインなのか分からない食卓は、正義の発言のようだった。もっとも、今となってはなかなか味わえない混沌の発言の数々をこうやって惜しむのは、育ちきった犬を見て、子犬の頃を懐かしむ飼い主のエゴでしかない。やはり私はズルい大人だ。このズルさが認められるようになったのと、軽はずみな行動を許すことはよく似ている。

 目をテーブルの中央に向ける。私が買ってきた花が蛍光灯に照らされて艶やかに光っていた。

「キャンドルで次は食事をしましょうか」

「みのるくんがびっくりするって」

「ムーディーで宜しいかと存じますが」

「お前の口からムーディーという言葉がでるんだな……破壊力がスゴいぞ」

 お前はいるだけでムードが出るからいいよな、と正義は唇を尖らせる。かく言う彼も酒が入ると大概とんでもないことになるのだが、ここでは追求しないでおく。

「ほう。どういうムードが生まれるのか、膝をつき合わせて教えていただきたいものですね」

「そりゃ、こうさ……何だろう、上質な香りが漂うというか……。宝石を砕いてぱっとばらまいたみたいな……」

「私はルームフレグランスですか?」

 そう訊ねると正義はこくんと頷いた後、テーブルに突っ伏して肩を痙攣させはじめた。胸でも痛いのかと訊ねれば左右に首を振り、一拍置いて正義は笑い出した。発作でも起こしたかのようだった。

「や、やめてくれよっ! 笑いのツボに……入っただろ……っ!」

 幽霊でフレグランス……と正義はひとりで笑い続けている。私は笑い病患者を放っておいて食事を再開する。八宝菜も魚の煮付けも大変に美味しい。気がつけば茶碗がからになり、お代わりをつぎに行こうとすると、

「俺がやるからいいよ」

 と、目尻に涙を浮かべ、身体をくの字に折ったまま正義が立ち上がる。

「お前にやらせると、米がはじけ飛ぶよ。農家の方に申し訳が立たない」

「あなたの言葉に反論できる証拠がありません。お願いしても宜しいでしょうか」

「おう」

 正義は私の手から茶碗を取るとこんもりと白米を盛って目の前に置いた。

「あ、盛りすぎた?」

「すべていただきますのでご心配なく」

「いま、夜の二十二時だぞ」

「夕食にケーキを食べていたころに比べたら大変に健康的です」

「あれはぶったまげたな。平気な顔をしてぱくぱくと食べていくんだから」と再び座った正義が顔をくしゃくしゃにして笑う。さっき笑ったおかげで表情筋が緩んだらしい。

「今日も結構なものをありがとうございます」

「明日も結構なものを出すよ」

 言うようになったものだ。しかもこの言葉に嫌味はない。正義がそういうならば、明日も素晴らしい食事が出てくるのだ。

「お前が食ってくれると、とても嬉しい」

「あなたはいつまで経っても曇ることを知らない。よく研磨されたクリスタルのようです」

 彼の目に映った私は何分割されているのだろう? それともひとつの像を保っているのだろうか? そんなことを考えていると正義が頬を掻きながらこんなことを言う。

「リチャードに虹をプレゼントできるな、俺がクリスタルなら。太陽の光を受けて」

 あ、でも太陽はリチャードなんだよなあ、と腕を組む。私は頭を振って言った。

「あなたも太陽ですよ」

「みのるくんにとって、そうなれたらと思うよ。でもそこまで絶対的な存在になりたくないんだ。お助けマンぐらいでいい」

「しかし私は太陽だと、そうおっしゃる。私の横には並び立たないご予定で? あなたは月ではありません。私の――……」

 私の、ともう一度繰り返す。私の、の次が言えたら、この均衡は崩れる。この直感は正義にもあったようで、「俺、明日の仕込みするよ」とキッチンに行ってしまった。

 薔薇に降らせた雨を止ませたかと思ったら、次はその雨の降らせ主にフォローされてしまった。こういうとき痛感する。

「いえ、いつもですね……」

 正義が自ら成長し、この世界で生き抜く術を身につけていっているのだと。そして喜ぶべきだと分かっているのに、いま私は素直に喜べない。正義の野菜を刻む音に紛らわせるように小さな声で呟く。

「親が、子どもを子どものままにしたがるのが、分かったように思います」

 いつまでも頼りにして欲しい、というのはエゴそのものだろう。決してそんな独善的な愛は求めないといつぞや誓っていたのに。

 つくづく正義と過ごしていると感じる。

 感情とは想像するのではなく、味わってこそ実感がわいてくるのだと。

2025年7月6日日曜日

薔薇に雨、指に時間、星に光を 第三話 通過儀礼 リチャ正

 3 通過儀礼



 ――やっちまったな……。

 リチャードの秘書について三年過ぎ、俺への指名も徐々に増えてきたところで、やらかしたミスの連発。説明をど忘れしたり、待ち合わせ時間に三分遅れたり、出されたお茶をこぼしたという、どれも致命的ではない。ビジネスをやっていれば誰でも一度はやっただろうミス。でも今日に限ってはノーミスで切り抜けたかった。リチャードがいつか、コンピューターゲームで俺に見せてくれたように。

「はぁー……」

 今日何度目かのため息が漏れる。頭では分かってる。どれも大したミスじゃない。どのお客さんも商談がはじまればさっき俺がやらかしたことなんて忘れていた。しかし俺が忘れるわけではない。それでも普段は車を走らせているうちに忘れていく。わだかまりが解けていく。でも今日はダメだった。小さかったこんがらがりが、昨晩のことと絡み合い大きなこんがらがりになってきている。

 こういうときは、仕事を切り上げて家事に没頭した方がいい。

 ミスを取り返そうと焦れば焦るほどミスをする。それが俺だ。伊達に三年もこの仕事をやっていないというわけだ。

 と、早めに帰宅して、明日に回せる仕事は全て明日に回し――ありがたいことに、今日中に処理しなければならない仕事はなかった――、家事に精を出した。洗濯機を回し、床を掃除し、洗濯物を干して飯作りに没頭する。スーパーで買い込んだ食材を片っ端から使って料理を作っているとすっきりするのだ。このストレス発散法の難点は、一人暮らしではし辛いことなのだが、リチャード、そしてみのるくんとふたりも一緒に暮らす人間が増えたお陰で気兼ねなくできるようになった。

「うわ、今日は何かのお祝いですか? それともお客さん?」と学校から戻ってきたみのるくんが目を丸くする。頬を掻きつつ弁明するように俺は言う。

「作ってみたかった料理を作ってみただけ。デザートもあるぞ。あ、手を洗ってきて。すぐに夕飯にするから。リチャードは今日遅いし」

「はい!」

 みのるくんは自室にカバンを置き、部屋着に着替えてからやってきた。手は洗面台でしっかりと洗ったと笑う。俺はエプロンを外し、フックに引っかけると席に着いた。そして手を合わせ、

「いただきます!」

 わざとらしく腹から声を出す。そうでもしないとそのままテーブルに突っ伏してしまいそうな気がしたからだ。みのるくんはどれから食べよう、と嬉しい事を言いながらまず唐揚げに箸をつけた。次におひたし、サラダ、魚の煮付け、八宝菜、味噌汁……、自分で言うのも何だが、和洋ごちゃまぜはともかく、主菜が何品もあるこの状態は、俺のストレスをそのまま形にしたようだった。

 その混乱を片付けるようにみのるくんはよく食べてくれた。中学生だもんな。俺もこのくらいの時期からよく食うようになった気がする。そして料理のレパートリーもどんどん増えていった。ひろみが仕事で忙しくなるのと比例しているのがおかしい。今日のメニューはまさにそのとき覚えた料理の数々だった。

「――ごちそうさまでした」

 手を合わせたとき、大皿のおかずはすっかり消えていた。ふたりぶんの盛りつけにしたとはいえど、結構な量があったはずだ。まるでみのるくんと俺で手分けしてストレスを解消したかのようだった。

「今日のご飯、おいしかったです。また食べたいです」

「オッケー。どんどん言って。何でも作るから」

 みのるくんのこれまでの暮らしについては福祉の方から聞いている。有り体に言えば、子どもが親となって、親の面倒を見ていたような状態だ。俺のときより悪いかもしれない。すくなくともひろみは働いていたし、ばあちゃんが俺にはいたし、空手もできる程度の余裕はあったのだ。

「ありがとうございます。食器は洗います!」

 そう言ってみのるくんはお皿を洗ってくれ、リビングで俺としばらく一緒にTVを見た。ニュースを見て、日記に自分の意見を書けという宿題が出たらしい。その後、ダイニングテーブルで書き、他の宿題も片付けてから、友達とオンラインで対戦ゲームをするのだと言って自室に引っ込んでいった。

 で、俺はといえば――、ひとりでソファにぼんやりとしていた。目の前のTVの画面は時間に合わせて次々と切り替わっていく。だが何かをしようという気になれない。昨日の失言がまだ尾を引いているのは分かっていた。

 俺はあの発言について『いつもの癖だ』という趣旨の弁明をした。リチャードもそんなことは分かっていると言った。その真意を語れとリチャードは指摘する。だが語るわけにはいかない。すでに知られている真意だとしても、口にするのと、しないのとではまったく異なる。俺がリチャードを離したくないと言っても――………………。

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 考えてもただ疑問が回るだけだった。俺がそんなことを口にしても、リチャードは上手にかわしてくれるだろう。俺のガス抜きだと言わんばかりに。そう、答えはリチャードしか持ち得ない。

 そして俺はガス抜きに言いたいのではなかった。それすらもきっとリチャードは分かっている。分かっていて、――じりじりと、一歩ずつ、俺を受け入れてくれている。今さらだが、改めて考えてみると不思議だった。バイト先の上司と親しくなることはよくある。卒業後に見習いから雇用されることもないわけではない。だが、こうやってふたりで暮らすようになるとまでは思わなかった。

 出会いは夜の公園、一度きりで終わってもおかしくない出会い。

 その縁を繋いだのは俺のばあちゃんであり、リチャードだった。リチャードが受け入れる気がなければどうにもならなかった。

 考えてみれば、俺には選ぶという余地すらない。そんなものははじめからなかったのだ。

 俺はこの暮らしを捨てられない。

 捨てられないから、リチャードには決定的な一言が言えない。言ったところでリチャードが大きく態度を変えることはないだろう。これは確信に似た願望だ。しかし、これまでの告白とは訳が違うのだ。

 俺はリチャードとどうなりたいか、自覚している。

「リチャード、一緒に暮らすことで俺に圧をかけてるのかな?」

 一緒に暮らし、同じ職場で働き、お互いのスケジュールも完全に把握して、もはや知らないことは己の頭の中しかない。その頭の中まで掌握されたら、俺の逃げ場がなくなる。いや、とっくの昔になくなっている。俺はどうやったってリチャードと離れられないのだから、節度ある態度を保つべきなのだ。

 そこまで考えたとき、鼻腔を重く甘い香りがくすぐった。リチャードの香水が入り交じった生々しい匂い。その匂いが頭の上から俺を包み込むように落ちてくる。俺が目を上げて眼前の同居人に言葉をかける前に膝に置かれたのは大きな花束だった。

「今日もお弁当、大変おいしゅうございました」

 その思いを込めて、と俺の隣に滑らかに腰掛けたリチャードが目を細めた。額縁にでも入れたくなるような美しい微笑だった。このままルーブル美術館にでも持っていって飾りたいほどだ。だが俺は長いこと見ていられなかった。リチャードがにじんでいく。輪郭を失い色のにじみになって、薄らいでいく。目を伏せれば熱い滴が頬を伝ってしたたり落ちた。

「正義、どうしました?」

 聖母のような優しい問いかけ。いつもの俺だったら尻尾を振ってリチャードに胸の内を全てぶちまけていただろう。だが今日は言うわけにはいかない。左右に首を振って目を逸らせば、両手で頬を挟まれた。そして見透かすような瞳でもって見つめてくる。

「黙っていては分からない。ことあなたに関しては」

「どうしてだよ。ズルいよ、リチャードは。全部分かってるだろ。全部分かってて、これだ」

「分かってなどいない。あなたの真意はあなたしか知り得ません。私は推察を口にしているまでのこと」

 そしてあなたに関してはよく当てているようで外す、と掠れたような声音でリチャードが告げた。廊下から軽い足音が響き、ドアの開く音がした。トイレか風呂だろう。

「好きなんだよ。好きって言っている男に、薔薇の花束を渡すなよ。いい気になるだろ」

 抑えた声で早口で言う。

「調子に乗るぞ。ただでさえ浮き足立ってる俺が」

 リチャードと一緒にいて、慣れるということはない。親しみは深まる一方だが、だからといって新鮮さが薄れるなんてことはない。俺は死ぬまでにリチャードの表情をどれほど知れるのだろう? 最後に見る表情がこの顔かもしれない。

「いくらでも調子に乗ればよろしい」

「は?」

「あなたが言う『調子に乗る』は、料理をたくさん作ったり、私の右腕になったり、目覚まし代わりに歌うことでしょう?」

「待て待て、俺はお前の右腕には遠い……」

「黙れ。私がそう言っているのだから信じなさい。それとも何か異論が?」

 リチャードに顔を挟まれたまま俺はどうにか首を左右に振って見せた。リチャードがグットフォーユーと呟く。久しぶりに聞いた気がする。いつの間にか言わなくなったんだよな。

「あなたはすっかり大人の顔なのに、ときどき大学生のときのあなたが現れる」

「未熟者だよ、俺は。お前みたいには――」

「私も未熟者です。いいえ、それを言えばどの人も真の意味での成熟などあり得ない。いかがでしょうか、正義」

「……………………」

 リチャードも俺も、多くの子どもが絶対的に頼りにし、信じるであろう母親が未熟だった。あまり自分の母親について批評したくはないが、友達の母親――いつも家にいてくれて、おやつを出してくれて、構ってくれる――が羨ましくなかったかと問われたら苦しい。だが、その友達の母親だって成熟した母親というわけではない。どんな親だって試行錯誤しながら成長していく。

「そう、かもな。ならお前も?」

「そうだと今言いました。考えてみなさい。この年で料理一つ満足できないのですよ、私は」

 俺はぷっと噴き出した。これまでリチャードがやらかした料理の失敗を思いだしたのだ。炊飯器に木べらが刺さったのは傑作だった。どうやったらそんなことになるのかは正直俺にだって分からない。思い出し笑いをする俺をたしなめるようにリチャードは頬をぐにっと押すと、ぽんぽんとたたいてから額をくっ付けてきた。鼻と鼻の先が触れあうか触れあわないかの距離で。

「正義、こうやって吐き出すのは素晴らしいことです。但し、私にだけにしなさい」

「お前にしか話せないよ」

 お前のその、深い井戸の入口みたいな目に向かってでないと言葉が生まれない。リチャードはどんな言葉だって飲み下してしまう。だから気をつけようという発想にならない。たくさん言葉を投げ入れて、投げ入れ続けたら、井戸からリチャードに似た神様が現れて神託を告げるかもしれない。

「そしてこの代金は夕食です。お腹がすきました」

「ここで飯の催促、くるかぁ? 先に花を生けるよ。……ありがとう、とても綺麗だ」

「どういたしまして。私もよい経験をしました」

「そりゃよかった」

 花束を抱えて立ち上がり、キッチンのシンク下を開いて花瓶を出す。ラッピングを取ってから、キッチンばさみで茎を切る。アレンジが綺麗なのでそのまま花瓶に生けて形になるのがありがたい。

「花があるとは気持ちが晴れ晴れとするものですね。毎日でも買いたいほどです。いかがでしょう」

 と、生活担当の俺にリチャードが訊ねてくる。俺は苦笑する。

「一週間に一度にしてくれ。意外と日持ちするんだぞ、切り花は。それと花ばさみも買ってこないとな」

「花ばさみでしたら私が買ってきましょう。明日も銀座ですから」

「んな高いの買ってこなくていいからな」

 そう言ったにもかかわらず、リチャードはデパートで勧められたという花ばさみを買ってきた。しかも木箱に入っているものを。その威厳に、思わず「おはさみ様……」とみのるくんと俺が言ってしまったことは付け加えておこうか、なあリチャード?


 

2025年7月3日木曜日

薔薇に雨、指に時間、星に光を 第二話 リチャ正

 2 目覚まし時計のない朝




 今朝ほど正義の歌声が萎んでいた日はない。

 おかげで朝の食卓は実に奇妙な静寂さを保ったまま進行し、みのるさまはきょとんとした顔をしていた。それはそうだろう。仲が良いと思っていたふたりが微妙に牽制し合っているのだから。しかし喧嘩している様子はなく、それでいてギグシャクしたこの雰囲気ほど他者を惑わせる空気もない。

「行ってきます」

 と、みのるさまは朝食を食べ終えるとそそくさと学校に行ってしまった。彼は私が想像するよりずっと正義に似ていた。片方の親が似ているから、という意味ではない。似たような境遇であったから、同じように芽吹いた、といえばいいだろうか。正義が面倒を見るようになった流れは私も聞いている。私もまた正義やみのるさまと同じく、家族関係には難を抱えているため、彼らと似通った痛みを抱えている。

 ……もっとも、みのるさまからすれば、似通っていない、と言われるだろう。あくまで同じような心境を得るような環境であった、ということだ。この捉え方からすれば、正義やみのるさま、私と同じような思いを味わった人間は他にもたくさんいる。最近、そのようなことを考えるようになった。私の望みの環境が思いがけずも手に入り、落ち着いたことが大きいだろう。

 今日、正義は商談が午前に一件、午後に二件あるはずで、このしょぼくれた様子ではどうなることやらだった。自室で出かけの準備をしながら眉間に皺が寄りだし、人差し指で磨くようにして押し広げる。

 さすがにシャウルの元に来て数年が経てば、正義もしゃんとしてきて、プライベートの感情をビジネスの場で出すことは激減した。だからこそ安心して秘書を任せることができている。しかし今日は心配になる覇気のなさだった。昨晩のことが尾を引いているとしか思えない。が、幾度となく失言を繰り返した正義はその辺りのリカバリーも心得ていて、一晩過ぎれば立ち直り、私に新たな決意を表明する。あの様子だと、今日はどうもそのリカバリー方法が浮かんでこないらしい。

「正義、行ってきます」

「うん、行ってらっしゃい」

 と、弁当を渡しながら見送られ、外に出てから鋭く息を吐いた。ここで弁当をダシに交渉にこないのがいかにも正義らしい。いや、違うか。この弁当の重さで、「俺はいつも通りだから」と暗にメッセージを発している。

 この弁当も手が込んでいる。

 毎日、正義はメニューを言ってから渡してくるが、今日はその気力は無かったらしい。毎回内容を聞くたびに拍手してしまいそうになる。だが、正義曰く、「なになに料理の素」なるものが無数にあるので、自分がやっていることは切って混ぜて炒めるとか、炊くだけ、らしい。その調理過程が既に私からすれば魔法だ。

「……指輪の似合いそうな手、ですか」

 ハンドルを握った手に目を落とし、苦笑する。手を褒められることは多かったが、大抵その後のリターンを目論まれてのことだった。

「きっと何気なく言ったのでしょう。与える影響も考えず」

 この癖は雇用したときからあって、正直なところ面食らった。私にとって他者とは何らかの意図を持って近寄ってくる存在だ。なのに正義が何を意図しているのか、私には分からなかった。いや、この表現は妥当ではない。

 私には分かっていた。

 正義が私に興味を持ち、純粋に親しくなりたがっていることを。

 そのことを、私は恐れた。どうしてかといって、味わったことがなかったからだ。

 このこと、いま振り返ってみると笑いそうになる。人間は欲しい欲しいと願っているものが、手に入らないうちは渇望するのに、いざ手に入るとなると尻込みし、怯え、さらには「これは私が求めていたものではない」と言い出すのだ。商売をしていてもよく見かける。どうしても欲しいと言うジュエリーが、いざ目の前に出てくる者と、尻込みする者。この差がどこにあるのか、未だ分かりかねるが、少なくとも自分自身については分かっている。

 私は友情を渇望していながら、その実、友情を知らない。

 だから差し伸べられた手が友情か否かも分からない。

 それが私だったのだ。

 ……正義は私を優しすぎる男だと評するが、その逆だろう。優しさの残酷さをよく知って活用しているのが私だ。優しくされると、人はそれ以上踏み込みづらくなる。そのことを私は学校生活を送るうちに知った。無論つけあがる者もいたが、その点、私は断れない気質ではなかった。断ることを知らないと今日まで無事で済まなかった、と言い換えてもいいだろう。

 つまるところ、他者を信じたくとも信じられない怯えから優しくしていたに過ぎない。しかし今の私は違う。正義には優しくしたいから優しくしているし、彼が大事にしているものは大事にしたい。

 これは、私の意思だ。

 ずっと私と共にあったのに長らく私の役に立たなかった意思。疎ましいだけだと思っていた個人的感情。誰かがいつしか私を『人形のよう』と評したように、本当に身も心も人形であればどれ程に楽だっただろう?

 しかし私は人間であることを止められない。そのことを正義は存分に教えてくれた。貴族でもなく、宝石商でもなく、一人の男として何がしたいのか? 彼自身にもそれは然りと掴めていない発想だったのだろう。が、私には伝わった。考えるより感じるという形で。

 その結果、私は彼を雇用し続けたいと願った。もちろん彼の夢を邪魔をする気はない。公務員を目指したければ目指せばいい。ただ、その夢がもし幻だと気づいたとき、受け皿になりたかった。

 この私の気持ちに正義が気づいていたとは考えにくい。しかし気づかずとも正鵠を射ることは往々にしてある。占いのお告げにはっとするように。

「また見抜かれましたか」

 自分の手に訊ねても答えは返ってこなかった。何の縛りもなく軽い左手でギアチェンジをしながら私は半ば自動的に車を走らせ続けた。



 正義のいないエトランジェは、いつも無駄に広く感じる。

 贅沢に取った空間こそがラグジュアリーを生み出すことは、古来から知られていることだ。そしてこの店のインテリアを取り仕切ったのは私だ。なのにこの店の心地よさは、私でなく、客のために生み出された心地よさだと最近思うようになった。

 簡潔に、正義にも分かりやすく説明するなら、どうも肌にこの空間が馴染まなくなってきたのだ。イギリスの屋敷は頻繁に模様替えなどしなかった。古き良きままに、と、一体いつの時代に作られたのであろうと首をかしげるような重厚で大仰な家具が広い空間でひしめき合っていた。そういう家具を愛していたから、エトランジェもその雰囲気に似せて彩ったのだが、どうも物足りない。いや、物足りなくなってきたのだ。

 正義さえいればこの違和感は容易に埋まる。しかし彼には彼の仕事があった。

 ……私はいつも不思議になるのだが、正義がくるまでどうやって私は仕事をしていたのだろう? 正義がいなくても仕事は滞りなく進む。その事実に私を慰める要素はひとつも見当たらない。ひとりで入れるロイヤルミルクティーは安寧の時間であったのに、いまは比べている。正義の入れたロイヤルミルクティーのほうが深みがあると。彼がレシピに手を加えていないことは以前確認している。

 だから単なる気の持ちようの差だ。原因など分かったところでしようもない。この新たな気づきが、更なる気づきを生む。

 この気の持ちようが大きな差を生む、ということに。

 普段は軽く扱うくせに、いざというとき重く扱う。それが気持ちという原石だ。この原石にどんな値打ちをつけるか、カッティングを施すか、はたまた手放すかは自由だが、ひとつ注意点があるとすれば、その気持ちを曇らせて輝きを失わせないことだろう。

 私はジュエリーをお客様に勧める際、そのように説明してきた。別に売りつけたいと思っているのではなく、本心から欲しいと思っていることは明白なのに、あちこちから「買わなくていい理由」を引っ張り出してくる――季節外れの洋服を慌てて引っ張り出してくるような違和感――、だからこそ、お客様に対して、そのようなことはしなくていいのだと私は教えているだけなのだ。

 今日のお客様もそうだろうか?

 お客様について、会う前からあれこれと想像しすぎないようにはしているが、私も人間だ。情報が入ってくれば想像せずにはいられない。それが人間という証のような気がする。人形にはできない。ロボットにもできない。動物だってできない。人間にしかできないことなのだ。

 そんなことを思いながら私は今日一番の客を迎えた。彼女はイエローの薔薇の花束を抱えていた。そして入ってくるなり私に向かって微笑み、

「どうぞ、リチャードさん。とても綺麗だったものですから」

 と、差し出してきた。

 基本的に差し入れの類いはお断りしている。が、全てむげに断ることも難しい。特に常連の方は。このお客様は一年に一度ぐらいのペースで、二ヶ月ほど打ち合わせをしてジュエリーを作られる。そして毎年、はじめて予約を取られる際にはこうして花束を持ってくる。「自分へのお祝いみたいなものなの」と笑って。

「大変結構なものをありがとうございます。すぐ飾らせていただきます」

 そう言って受け取ると、キッチンにある花瓶に手早く生け、お客様の席から見える位置に花瓶を設置した。ちょうどそこに花台代わりとなるキャビネットがあるのだ。

「綺麗な色でしょう? 香りも良くて」

「そうですね。初夏らしい色合いで、店が華やぎます」

「あなたほど場を華やがせる人もいませんけどね、リチャードさん」

 と、お客様は微笑んで席に着いた。それからは特に薔薇は話題に上ることなく、例年通り商談は進み、デザートを楽しまれ、お客様は帰っていった。私は食器を下げ、洗ってからキャビネットに鎮座する薔薇を見つめた。

 私は、薔薇を見ると――、無性にむしり取りたくなることがあった。

 植物園を楽しんでいても、薔薇は特別目立つところにあって、まるで花の王のごとく君臨していた。だから否が応でも目につくのだが、そのたびに胸にわき上がるどす黒い感情を感じずにはいられなかった。花を全部むしり取り、燃やしたくなるような怒り。

 この気持ちは、幼少期の頃からあったように思う。

 イギリスにある生家の手入れの行き届いた庭に咲く薔薇は、自分の母を彷彿とさせる大輪の花を気持ちよさそうに咲かせていて、美しいと感じる一方で、哀しみ、あるいは憎しみを私に抱かせていた。その思いをさらに強くしたのは、薔薇の花言葉を知ってからだったように思う。

 ――自分にも確かあるのに、自分ひとりだけでは手にできない、遙か遠いもの。

 それが薔薇の花言葉の印象だった。一度そのように捉えてしまうと、薔薇が目に入る度に胸が軽い痛みを覚えるようになった。だからとんと自分では花を飾らなくなった。旅のような暮らしを続けていたせいもある。しかしエトランジェにも飾りたいとは思わない。花には意味がある。花自身が聞いたらきっと驚くことだろう。

『私たちは咲きたいように咲いているだけなのに、勝手に意味をつけているのは人間たちではないの?』

 まったくその通りではある。しかし置かれているものに意味を見いださずにはいられない人はこの世に多い。いただいた花は飾る義理もあるが、私は私の意思で花を買おうとも思わないし、飾ろうとも思わなかった。

 その中でも、特に薔薇は。

 黄色の薔薇の花言葉は――美、友情、献身。

「……あなたにもあるのに、どうして私には」

 独りごちて花瓶の薔薇を掴む。黄色の薔薇が手のなかにやわりと収まる。このまま握りつぶそうか、と凶暴な感情が生まれ――すぐ打ち消した。

「あなたには、あなたなりの友情がある。私にもあるように」

 ただ、使いどころがこれまでなかっただけで、と私はぽつりといって薔薇から手を離す。難所を逃れた喜びに打ち震えるように薔薇がゆらゆらと揺れた。

 私はもう薔薇に八つ当たりする必要はないのだ。

 私にも、美や友情、献身を向ける相手ができたのだから。薔薇を厭う理由も消えた。

 しかし私はまだ、花を買ったことが、ない。


2025年7月2日水曜日

薔薇に雨、指に時間、星に光を 第一話 リチャ正

 1 指輪の似合いそうな手



 一分一秒を惜しいと思ったことなんて、俺はリチャードに出会うまでなかった。

 どちらかといえば、早く過ぎ去ってくれと祈っていたように思う。さっさと大人になって、一人前に金を稼ぎ、ひろみを楽にさせてやりたい、そればかり考えていた。

 この考えは俺にとってはお守り、指針みたいなもので、何かを決断するときには必ず持ち出していた。もっと言えば、俺の生きる価値というのはそこにしかなかったのだろう。みのるくんを見ていると、その頃を思いだして胸がきゅっと痛くなる。

 俺はみのるくんに染みついたこの考え方を、少しずつ和らげられたら、と思う。俺にとってのリチャードがそうであったように。俺のあまり健全とは呼べない、しかも意識できない価値観は、リチャードと出会ってからは少しずつ薄まり、あるいは形を変えていった。消えたわけではない。中田さんとひろみには親孝行をしたいとずっと思っているし、その通りに行動してきた。

 が、その一方で、俺自身についても真剣に考えたい。

 こんな考えが浮かんでくること自体がおかしなことなんだろう。リチャードの秘書となって、自分のやりたいことがはっきりした今だからこそ、考える余裕が生まれてきたのかもしれない。いま振り返ってみれば、俺の周りにいた同級生は就職活動をする頃には、今の俺と同じ境地に達していたのだろう。そんな同級生からしたら、俺は変な奴に見えたに違いない。自分がどうしたいかではなく、自分の活用方法ばかり考えて、欲を出さない人間なんておかしい。でもそのころ、俺の欲……本心とでも言うべきか、それは奥深くに潜んでいて、そこにたどり着くまでに数年を要してしまったということだ。

 キーボードを叩く手を止めて、大きく伸びをする。そしてふと横を向けば、俺の稼ぎでは一生住めなかっただろう高級マンションから見える夜景が出迎えてくれる。このマンションに来た当時は、見慣れない風景に足の裏がムズムズしたが、いまはいい目の目の休憩だとよく眺めるようになった。それでも一番、俺の目を休めるのは――……

「って、お前どこから!?」

「玄関から以外、他にありますか?」

 と、俺の前に音もなく現れたリチャードは形の良い唇の端をわずかに持ち上げて笑った。自称幽霊だと言うだけある。一応足があるか、透けていないか確認にまじまじと見ていると、リチャードは呆れ声で言った。

「根を詰めすぎでは? 入ってきた私に気づかないとは」

「だって今、商談が平行で五件……時差がなあ……」

 思わず大きな欠伸が出る。このやり取りが日本国内オンリーだったらもっと早く、スムーズなのだろうが、海外とのやり取りが大半なので、なかなか前に進まない。それはキャンディも一緒といえば一緒だが、どうも日本にいるとせかせかしてしまう。思うに、日本では強制的に休むタイミングがないからだ。例えば、突然停電だとか、インターネット回線がダウンとか、自分の力ではどうにもならないトラブルだ。こういうトラブルが起きたら俺は諦めてジローとサブローを抱いて寝てしまう。騒いだってどうにもならないからだ。これがいい休憩だったんだな、と、小さく息を漏らせば、リチャードは俺の横に来るなりパソコンを閉じてしまった。

「今日はここで終いにしなさい。あなたはよくやっています」

「あーっ! まだ保存してない」

「オートで保存されています。さっさと風呂に入れ」

「さっき入ったぞ。スーツを着ているのは、この格好でないと捗らないからで!」

「もう一度入りなさい。休まった人の顔ではない」

「それならリチャードが先だろ。お前こそ今日も会食だったんだろ。もっと俺に仕事をまわしてくれていいからな」

 リチャードは会食に呼ばれることが多い。三回誘われたら二回は断るが、一回は行かねばあちらの顔も立たないと出向く。このつれない態度がまたリチャードを誘いたくなる一因だ。リチャード本人だって分かっているだろうに、三回とも会食に行くよりは、二回断って一回行く方が楽らしい。

「十分楽させてもらっています。正義、刺激を減らすことが平穏だと考えているならば、少々間違いかと存じます」

「お前、俺がスイスの山小屋を検討していたこと知ってた!?」

「いいえ。ですが私がそんなところに住んで喜ぶと考えているのなら、滝行にでも行きなさい」

 そう言ってリチャードは俺の横に座るとビジネスバッグから小説を取り出した。話はここで終わりという合図だ

「シャワー浴びてくる」

「最初からそうしなさい」

 本のページをめくりながらリチャードは言った。言うことを聞かない子どもを宥めるような響きがそこにあった。俺は大人しく脱衣所で服を脱ぎ、バスルームに入ると独りごちた。

「……そうだよな、リチャードは、人間は好きなんだよ、な」

 でなければセールスマンなんて選ばないだろうし、これまでの経歴から考えても、望めば人とできるだけ接触しないような仕事にだって就こうと思えば就けたはずだ。

 だが俺はスイスの山小屋にふたりして引き籠もることを考えていた。偽ることを知らない自然に囲まれて、好きなだけ本が読めたらどれほどリチャードが幸せだろうかと想像していたのだ。

 この子どもじみた発想に俺は一時期夢中になって、真剣に取り組んでいたのだが、結局様々なハードルをクリアするのが難しそうだ、と分かり諦めた。しかし日本に落ち着いた今なら、この発想に薄ら寒いものを覚える。

 なぜスイスの山小屋なのか。

 リチャードを他者の視線から守るだけなら、別にスイスでなくてもいい。大都会東京でも姿を隠して生きることは不可能ではない。なのにわざわざ隔絶した地を選ぶのか。リチャードからすれば『いつものあなたの極端な発想です』と苦言するに留めるのだろうが、甘い。甘すぎる。ここでリチャードは徹底的に俺をやっつけておくべきだったのだ。

 俺はリチャードを、自分だけが知る美しい檻に閉じ込めてしまいたかったのだ。

 俺は俺だけがリチャードの友人だと思い上がっていた――わけではないが、リチャードの振る舞いや発言を聞いていると、まるで俺がリチャードの世界における幸福の基準になっているように思えてくるのだ。

 もちろん友人なのだから、ある程度は関わってくるのは分かる。だが、日本に戻りたい旨を伝えたとき、リチャードが快諾するとは予想外だった。俺だってリチャードと離れたいわけではないが、それは……まるで、俺さえいれば特にこの世に生きるのに支障はない、と無言の内に伝えられたような感じがする。

 この生活もリチャードを捕らえる罠だ。

 ここにつなぎ止めておくための鎖、檻。

 俺といるとこんなメリットがありますよ、を伝え続ける暮らし。キャンディではこんなことを意識していなかった。リチャードを喜ばせたい一心だったし、力になりたいのもまた本心だ。

 いつからだろう。

 リチャードを手放したくない、と思うようになったのは。

「……ズルくなったよなあ」

 大学生のときの俺が今の俺を見たら驚くだろう。こんな風にエゴイスティックになるとは!

 俺だってもっと良い男になりたい。リチャードが目を離せなくなるような男だ。いまのような、「心配だから目が離せない」は卒業したい。みのるくんの前でカッコをつけていることを見抜かれているようではまだまだだ。

 シャワーを浴びて、軽く髪を洗って上がる。バスタオルでざざっと身体を拭き、パジャマに着替える。そしてタオルを首に掛けてリビングへ顔を出す。リチャードが本から顔を上げて、怒りとも呆れともつかない目のきらめきを俺に向けてきた。

「乾かしてきなさい」

「リチャードが乾かしてくれるかなって」

「乾かしながらでは話ができないでしょう」

 乾かすのが手間だの、甘えるなだのではなく、一発で本心を見抜いてくるのがこわい。これまでは嬉しいと素直に思えたのに。

「でも俺もリチャードと話がしたいんだよ」

 と、隣に座ってジローみたいに身体を擦り寄せれば、リチャードは鼻を鳴らした。そして俺が首にかけていたタオルを手に取ると、頭にふわりとかけて一気に拭き上げにかかってきた。まるでジローとサブローを拭いているときと変わらない。この雑な感じが好きだ。いかにも信用されているようで。

「まあ、これでいいでしょう。そして少しお腹がすきました」

「冷蔵庫のおにぎりを温めるよ。あ、でも白むすびなんだよな。卵焼きでも……」

「それで十分です。自分でやるのでおかまいなく」

 と、みのるくんより怪しい手つきで電子レンジを操作した自称幽霊はミネラルウォーターをふたつのグラスに注ぎ、おにぎりと一緒にお盆に載せて運んできた。

「あなたも食べなさい。疲れた顔をしている」

「お前もな」

 そう言い返せばリチャードはくすっと笑った。顔に張り巡らせていた見えない糸が解けたとでも言うように表情が緩んでいく。

「ああ、やっとほぐれてきた」

 このリチャードの言葉に俺が手のグラスをおろし、じっと見つめれば、リチャードは片眉を上げた。

「あなたが心配するようなことは何も。ただ、意識を切り替えるのに少し時間がかかっただけです。本を読めばだいたい上手くいくのですが」

 それでも俺が見つめていれば、リチャードは大丈夫だというように俺の背を軽く叩き、グラスを手に取って水を飲んだ。こうすれば俺も水を飲むだろうと手本を示すかのように。俺はしぶしぶ一口だけグラスの水を飲んだ。澄んだ水なのに、妙に苦い味がした。 

「そんなこともあるんだな」

「あなたが考えるほど私もパーフェクトではない。そういうことです」

 年も取りましたしね、と喉の奥でくくっと笑い、白い手を伸ばしておにぎりを掴んだとき、無意識のうちに唇が動いた。

「指輪の似合いそうな手」

 深いブルーのサファイヤもいいし、シンプルなプラチナでも映える。そんな指だった。前からずっと思っていた。リチャードの指ほど指輪が似合いそうな手はないと。この失言に気づいたのはリチャードの青い目に射られたときだった。反射的に弁解の言葉が出る。

「悪い。綺麗だと言いたかっただけなんだ」

「そんなことは分かっている」

 リチャードはそう言っておにぎりを一口頬張った。味わうようにゆっくりと噛む。それ、俺が自分の手で握ったんだよな、それがリチャードに噛まれているのか、とぼんやり見つめていれば、額を指で弾かれた。

「あなたは頭を冷やしなさい」

「そうする」

 俺は頭を掻きながら立ち上がり、またバスルームに籠もった。そして頭から熱い湯を被った。頭に浮かぶワードを洗い落とすような勢いで髪を洗う。だがどう髪を洗おうが脳みそから考えが消えるわけじゃない。それどころかますます思考がクリアになっていくだけだった。

 それはひどく明朗な本心で、俺を痛めつけるには十分すぎるほどで。

 俺は風呂から上がると適当に髪を乾かし、今度は真っ直ぐに自分の部屋に入って寝た。













甘い煉瓦の家・リチャ正

    甘い煉瓦の家  ――横浜。  これまでホームグラウンドだった東京銀座を離れれば、リチャードが満足するようなデザートにはなかなか巡り会えないのでは……。  と雇われ秘書の俺は危惧していた。あの東京銀座から新宿のデパ地下を制覇し、商談でなくデザート談義をしに来るおばさま方にも...