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2025年7月6日日曜日

薔薇に雨、指に時間、星に光を 第三話 通過儀礼 リチャ正

 3 通過儀礼



 ――やっちまったな……。

 リチャードの秘書について三年過ぎ、俺への指名も徐々に増えてきたところで、やらかしたミスの連発。説明をど忘れしたり、待ち合わせ時間に三分遅れたり、出されたお茶をこぼしたという、どれも致命的ではない。ビジネスをやっていれば誰でも一度はやっただろうミス。でも今日に限ってはノーミスで切り抜けたかった。リチャードがいつか、コンピューターゲームで俺に見せてくれたように。

「はぁー……」

 今日何度目かのため息が漏れる。頭では分かってる。どれも大したミスじゃない。どのお客さんも商談がはじまればさっき俺がやらかしたことなんて忘れていた。しかし俺が忘れるわけではない。それでも普段は車を走らせているうちに忘れていく。わだかまりが解けていく。でも今日はダメだった。小さかったこんがらがりが、昨晩のことと絡み合い大きなこんがらがりになってきている。

 こういうときは、仕事を切り上げて家事に没頭した方がいい。

 ミスを取り返そうと焦れば焦るほどミスをする。それが俺だ。伊達に三年もこの仕事をやっていないというわけだ。

 と、早めに帰宅して、明日に回せる仕事は全て明日に回し――ありがたいことに、今日中に処理しなければならない仕事はなかった――、家事に精を出した。洗濯機を回し、床を掃除し、洗濯物を干して飯作りに没頭する。スーパーで買い込んだ食材を片っ端から使って料理を作っているとすっきりするのだ。このストレス発散法の難点は、一人暮らしではし辛いことなのだが、リチャード、そしてみのるくんとふたりも一緒に暮らす人間が増えたお陰で気兼ねなくできるようになった。

「うわ、今日は何かのお祝いですか? それともお客さん?」と学校から戻ってきたみのるくんが目を丸くする。頬を掻きつつ弁明するように俺は言う。

「作ってみたかった料理を作ってみただけ。デザートもあるぞ。あ、手を洗ってきて。すぐに夕飯にするから。リチャードは今日遅いし」

「はい!」

 みのるくんは自室にカバンを置き、部屋着に着替えてからやってきた。手は洗面台でしっかりと洗ったと笑う。俺はエプロンを外し、フックに引っかけると席に着いた。そして手を合わせ、

「いただきます!」

 わざとらしく腹から声を出す。そうでもしないとそのままテーブルに突っ伏してしまいそうな気がしたからだ。みのるくんはどれから食べよう、と嬉しい事を言いながらまず唐揚げに箸をつけた。次におひたし、サラダ、魚の煮付け、八宝菜、味噌汁……、自分で言うのも何だが、和洋ごちゃまぜはともかく、主菜が何品もあるこの状態は、俺のストレスをそのまま形にしたようだった。

 その混乱を片付けるようにみのるくんはよく食べてくれた。中学生だもんな。俺もこのくらいの時期からよく食うようになった気がする。そして料理のレパートリーもどんどん増えていった。ひろみが仕事で忙しくなるのと比例しているのがおかしい。今日のメニューはまさにそのとき覚えた料理の数々だった。

「――ごちそうさまでした」

 手を合わせたとき、大皿のおかずはすっかり消えていた。ふたりぶんの盛りつけにしたとはいえど、結構な量があったはずだ。まるでみのるくんと俺で手分けしてストレスを解消したかのようだった。

「今日のご飯、おいしかったです。また食べたいです」

「オッケー。どんどん言って。何でも作るから」

 みのるくんのこれまでの暮らしについては福祉の方から聞いている。有り体に言えば、子どもが親となって、親の面倒を見ていたような状態だ。俺のときより悪いかもしれない。すくなくともひろみは働いていたし、ばあちゃんが俺にはいたし、空手もできる程度の余裕はあったのだ。

「ありがとうございます。食器は洗います!」

 そう言ってみのるくんはお皿を洗ってくれ、リビングで俺としばらく一緒にTVを見た。ニュースを見て、日記に自分の意見を書けという宿題が出たらしい。その後、ダイニングテーブルで書き、他の宿題も片付けてから、友達とオンラインで対戦ゲームをするのだと言って自室に引っ込んでいった。

 で、俺はといえば――、ひとりでソファにぼんやりとしていた。目の前のTVの画面は時間に合わせて次々と切り替わっていく。だが何かをしようという気になれない。昨日の失言がまだ尾を引いているのは分かっていた。

 俺はあの発言について『いつもの癖だ』という趣旨の弁明をした。リチャードもそんなことは分かっていると言った。その真意を語れとリチャードは指摘する。だが語るわけにはいかない。すでに知られている真意だとしても、口にするのと、しないのとではまったく異なる。俺がリチャードを離したくないと言っても――………………。

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 考えてもただ疑問が回るだけだった。俺がそんなことを口にしても、リチャードは上手にかわしてくれるだろう。俺のガス抜きだと言わんばかりに。そう、答えはリチャードしか持ち得ない。

 そして俺はガス抜きに言いたいのではなかった。それすらもきっとリチャードは分かっている。分かっていて、――じりじりと、一歩ずつ、俺を受け入れてくれている。今さらだが、改めて考えてみると不思議だった。バイト先の上司と親しくなることはよくある。卒業後に見習いから雇用されることもないわけではない。だが、こうやってふたりで暮らすようになるとまでは思わなかった。

 出会いは夜の公園、一度きりで終わってもおかしくない出会い。

 その縁を繋いだのは俺のばあちゃんであり、リチャードだった。リチャードが受け入れる気がなければどうにもならなかった。

 考えてみれば、俺には選ぶという余地すらない。そんなものははじめからなかったのだ。

 俺はこの暮らしを捨てられない。

 捨てられないから、リチャードには決定的な一言が言えない。言ったところでリチャードが大きく態度を変えることはないだろう。これは確信に似た願望だ。しかし、これまでの告白とは訳が違うのだ。

 俺はリチャードとどうなりたいか、自覚している。

「リチャード、一緒に暮らすことで俺に圧をかけてるのかな?」

 一緒に暮らし、同じ職場で働き、お互いのスケジュールも完全に把握して、もはや知らないことは己の頭の中しかない。その頭の中まで掌握されたら、俺の逃げ場がなくなる。いや、とっくの昔になくなっている。俺はどうやったってリチャードと離れられないのだから、節度ある態度を保つべきなのだ。

 そこまで考えたとき、鼻腔を重く甘い香りがくすぐった。リチャードの香水が入り交じった生々しい匂い。その匂いが頭の上から俺を包み込むように落ちてくる。俺が目を上げて眼前の同居人に言葉をかける前に膝に置かれたのは大きな花束だった。

「今日もお弁当、大変おいしゅうございました」

 その思いを込めて、と俺の隣に滑らかに腰掛けたリチャードが目を細めた。額縁にでも入れたくなるような美しい微笑だった。このままルーブル美術館にでも持っていって飾りたいほどだ。だが俺は長いこと見ていられなかった。リチャードがにじんでいく。輪郭を失い色のにじみになって、薄らいでいく。目を伏せれば熱い滴が頬を伝ってしたたり落ちた。

「正義、どうしました?」

 聖母のような優しい問いかけ。いつもの俺だったら尻尾を振ってリチャードに胸の内を全てぶちまけていただろう。だが今日は言うわけにはいかない。左右に首を振って目を逸らせば、両手で頬を挟まれた。そして見透かすような瞳でもって見つめてくる。

「黙っていては分からない。ことあなたに関しては」

「どうしてだよ。ズルいよ、リチャードは。全部分かってるだろ。全部分かってて、これだ」

「分かってなどいない。あなたの真意はあなたしか知り得ません。私は推察を口にしているまでのこと」

 そしてあなたに関してはよく当てているようで外す、と掠れたような声音でリチャードが告げた。廊下から軽い足音が響き、ドアの開く音がした。トイレか風呂だろう。

「好きなんだよ。好きって言っている男に、薔薇の花束を渡すなよ。いい気になるだろ」

 抑えた声で早口で言う。

「調子に乗るぞ。ただでさえ浮き足立ってる俺が」

 リチャードと一緒にいて、慣れるということはない。親しみは深まる一方だが、だからといって新鮮さが薄れるなんてことはない。俺は死ぬまでにリチャードの表情をどれほど知れるのだろう? 最後に見る表情がこの顔かもしれない。

「いくらでも調子に乗ればよろしい」

「は?」

「あなたが言う『調子に乗る』は、料理をたくさん作ったり、私の右腕になったり、目覚まし代わりに歌うことでしょう?」

「待て待て、俺はお前の右腕には遠い……」

「黙れ。私がそう言っているのだから信じなさい。それとも何か異論が?」

 リチャードに顔を挟まれたまま俺はどうにか首を左右に振って見せた。リチャードがグットフォーユーと呟く。久しぶりに聞いた気がする。いつの間にか言わなくなったんだよな。

「あなたはすっかり大人の顔なのに、ときどき大学生のときのあなたが現れる」

「未熟者だよ、俺は。お前みたいには――」

「私も未熟者です。いいえ、それを言えばどの人も真の意味での成熟などあり得ない。いかがでしょうか、正義」

「……………………」

 リチャードも俺も、多くの子どもが絶対的に頼りにし、信じるであろう母親が未熟だった。あまり自分の母親について批評したくはないが、友達の母親――いつも家にいてくれて、おやつを出してくれて、構ってくれる――が羨ましくなかったかと問われたら苦しい。だが、その友達の母親だって成熟した母親というわけではない。どんな親だって試行錯誤しながら成長していく。

「そう、かもな。ならお前も?」

「そうだと今言いました。考えてみなさい。この年で料理一つ満足できないのですよ、私は」

 俺はぷっと噴き出した。これまでリチャードがやらかした料理の失敗を思いだしたのだ。炊飯器に木べらが刺さったのは傑作だった。どうやったらそんなことになるのかは正直俺にだって分からない。思い出し笑いをする俺をたしなめるようにリチャードは頬をぐにっと押すと、ぽんぽんとたたいてから額をくっ付けてきた。鼻と鼻の先が触れあうか触れあわないかの距離で。

「正義、こうやって吐き出すのは素晴らしいことです。但し、私にだけにしなさい」

「お前にしか話せないよ」

 お前のその、深い井戸の入口みたいな目に向かってでないと言葉が生まれない。リチャードはどんな言葉だって飲み下してしまう。だから気をつけようという発想にならない。たくさん言葉を投げ入れて、投げ入れ続けたら、井戸からリチャードに似た神様が現れて神託を告げるかもしれない。

「そしてこの代金は夕食です。お腹がすきました」

「ここで飯の催促、くるかぁ? 先に花を生けるよ。……ありがとう、とても綺麗だ」

「どういたしまして。私もよい経験をしました」

「そりゃよかった」

 花束を抱えて立ち上がり、キッチンのシンク下を開いて花瓶を出す。ラッピングを取ってから、キッチンばさみで茎を切る。アレンジが綺麗なのでそのまま花瓶に生けて形になるのがありがたい。

「花があるとは気持ちが晴れ晴れとするものですね。毎日でも買いたいほどです。いかがでしょう」

 と、生活担当の俺にリチャードが訊ねてくる。俺は苦笑する。

「一週間に一度にしてくれ。意外と日持ちするんだぞ、切り花は。それと花ばさみも買ってこないとな」

「花ばさみでしたら私が買ってきましょう。明日も銀座ですから」

「んな高いの買ってこなくていいからな」

 そう言ったにもかかわらず、リチャードはデパートで勧められたという花ばさみを買ってきた。しかも木箱に入っているものを。その威厳に、思わず「おはさみ様……」とみのるくんと俺が言ってしまったことは付け加えておこうか、なあリチャード?


 

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