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2025年7月9日水曜日

薔薇に雨、指に時間、星に光を 第四話 薔薇に雨 リチャ正

  4 薔薇に雨



 ――薔薇に雨が降る。

 正義の頬から伝い落ちる涙が雨となって、薔薇にふりそそぐ。

 その雨を手で受け止めたくて正義の頬を抱く。薔薇にだけ涙を与えられるのは悔しかった。正義が生み出す感情はひとつも逃したくない。そんな私を指してか、正義はズルいと言った。それは否定しがたい事実だろう。

 ……客観的に見て、私ありきで正義の生活が成り立っている。彼の仕事も暮らしも、私がいるからこそ、の部分が大きいのだろう。

 が、その逆も然りだ。

 正義なしで私の今の暮らしは成り立たない。そのことを正義はすぐ忘れてしまう。どんな一流レストランよりも、正義の手料理を食べているときの方が幸せを私は感じている。そもそも、正義は知っているのだろうか、私がパーラーに通う回数が減っているということに。

 ――正義は私の幸福そのもの。

 今までそう伝えてきたつもりだったが、正義はずいぶんと目減りさせて受け取っていたらしい。どうしてだろうか。

 思い返せば学生時代からそうだった。私から発せられた言葉は、たいがい言葉通りに受け取ってもらえず、余分な意味合いを持たされることが多かった。その結果、トラブルが頻発した。現在、ビジネスが上手くいっているのが不思議なぐらい、私は他者との付き合いが下手だったし、いまもそう上手いほうではない。

 ではなぜビジネスに限って上手く行くのかといって、求めるものが私でなく宝石だからだ。それに私も自分のことでなければ、かなり気楽に話せた。だからと言って私の根本的な渇き――、人と親密になりたい、を癒やすには至らなかった。考えてみれば私自身が私と親密でないのだから、他者と付き合えるはずもない。自分の望みの分かっていない客が、望みのジュエリーを手に入れられないのと同じことだ。

 そして正義を雇った経緯は――、ヴィンスの助言なしには成しえなかっただろう。すべてが私の判断基準から外れている男。それが中田正義という人間だった。

 正義はこれまで出会ってきた人間とは何もかもが違っていた。

 私の言葉に一喜一憂するくせに、いざというときには受け取ろうとしない。もしくは相当にさっ引いて受け取る。思わず怒ってしまったこともあるぐらいだ。その癖は長らく一緒に過ごすことで徐々に取れていったのだが、いまの正義は大学生に返ってしまっていた。

 だから私は告げる。

「分かってなどいない。あなたの真意はあなたしか知り得ません。私は推察を口にしているまでのこと」

 そしてあなたに関してはよく当てているようで外す、とも。

 この言葉に誘発されて正義は私のことを好きだと言った。正義から「好き」と言われると、「綺麗」と言われるよりずっと嬉しかった。心がむずむずとして、温かくなる。「綺麗」は私が大勢に与えられるものだろうが、「好き」は与えられない。そうだろう? 宝石は大勢が見ても「美しい」と思う。でも「好き」かどうかはまた別の話だ。そして「好き」であっても色々条件がつく。色味、カラット数、カッティング、産地、加工方法、……、人間は差別を嫌がる割に、ランキングをつけるのが本当に好きだ。要は自分がこのランキングに入ってさえいなければエンターテインメントになるのだろう。そしてそのランキング上位を手にすることが誉れとなる。私のことを好きだという人間は、多くの場合、「私がとびきりの美人だから」という理由からだった。こういうのが好きな人間もいるだろう。だが私はまったく好きではなかった。むしろ、自分が人間扱いされていなくて不快なほどだった。

 だが、正義に限っては、「好き」と言われても嬉しいだけなのだ。

 そのような心境に至ったのは極めて分かりやすい。正義は私のことを否定することがほとんどなかった。むしろ口数の少ない私を理解しようとしていた。これも軽い衝撃だった。このとき、私は自分のおごりを知った。

 ――自分に話しかけてくる人間は、たいてい下心がある。

 正義が帰った後、彼の使っていたエプロンに向かって詫びを呟いたことすらある。今日までの経験を平たく言えば、正義のお陰で長年にわたって培ってきた人間不信が和らいだ、となるのだろう。この一文には余人には分かりかねるほどの気持ちと歴史が籠もっている。

 が、それは私にしか分からない。

 正義にだって分からないだろう。それどころか、「俺がしたことは大したことではない」ぐらいは言い出しそうだ。

 だから正義に花を買った。

 私が正義に渡したいと思ったから買い、渡したのだ。

「いくらでも調子に乗ればよろしい」

 この発言に正義はしばらく呆気にとられていたが、驚くべきところなどない。私に対してはいくらでも調子の乗ればよい。それだけ私の生活が充実する。正義と出会ってから、私の暮らしに色がつきだした。これまでは予測可能で、淡々と消費されるだけであった毎日が、一気に色づき、花開いたのだ。これは幾らお金を積んでも得られないもののひとつで、正義が作る食事の数々も、金と引き換えに手に入るものではなかった。

「いただきます。……今日はずいぶんたくさん作ったのですね。みのるさまのお友達でも来られたのですか?」

 食卓に並べられた皿数の多さに口元を緩ませれば、

「俺が作りたかっただけだよ」

 ミネラルウォーターの入ったグラスを揺すりながら正義がそっぽを向いた。その耳がわずかに朱に染まっている。薔薇に降らした雨に免じて、それ以上の追求は止めておくことにしよう。その代わりにこう告げる。

「少し、あなたについて分かったことがあります」

「俺について?」

 不意に占い師に未来を言い当てられる。そんな怯えが正義から漂う。私は気にせず続けた。

「軽はずみな言動です。私が花束を買った経緯も、単純に買いたかっただけなのです。軽はずみでしょう」

「一瞬、記念日だったっけ、て思ったよ。何の記念日ってなるな」

 正義がくしゃっと笑う。その顔を見た瞬間、腹にこもっていた力が緩んだのを感じた。正義は分かっているのだろうか? あなたが辛そうな顔をしていると、私も辛くなる。そう伝えれば喜ぶのではなく、責任を感じ出すのが正義だから、言葉にはしない。

「私が花を買った記念日です。日本に来て、個人的に花を買ったのははじめてです」

 正義が水を噴き出した。そして激しく咽せる。そんなに驚くことだろうか? 私の暮らしぶりを知っていれば、納得できそうなものだが。

「あ、でも日本でなければ、買ったことあるってことだよな。うん! お前が花を買ったことないなんて考えられないよ」

 と、口元をティッシュで拭いながら正義は言った。

「あなたはこれまで買ったことは?」

「ちょっと待ってくれ。真剣に考える」

 そして正義は腕を組み、うんうんと唸りだした。私が覚えている限り、正義がエトランジェに来てから誰かに花を買ったという話は聞いた覚えがない。恋愛に関しては奥手も奥手な正義が、こうも私に好意を示していること自体がイレギュラーだ、とふと気がつき、顔がにやけそうになる。同性という気楽さだけで、ここまで示せるものだろうか?

「ない。ないです。お見舞いではあったけど、それはノーカンで」

「どなた相手かに寄りますね」

「空手の先輩後輩だよ。ノーカンだろ」

「確かに」

 そして目を見合わせて笑い合う。

「リチャードこそたくさん買ってきただろ?」

「私が浮名を流せるほどの気概の持ち主でしたら、違う人生を歩んでいますよ」

「それはイヤだ」

 テーブルを手で叩き、しまったとばつの悪そうに耳の後ろをかいてから正義は続けた。

「俺はリチャードに会えて、文字通り人生が変わったんだ。こういうと重たく感じるよな。でも本当のことだ。俺の人生は――……、こう、あんまり、パッとしないまま終わると思ってた。だから、なんかおこがましいけど、俺もみのるくんにとって……そういう存在になれたらと思うんだよ。たったひとりの人間との出会いで、人生が一変することもある。そうだろ?」

 私は頷いた。この返事に言葉は相応しくないと思ったのだ。

 私は言語をこよなく愛しているが――、一方で不自由だとも感じている。同じ言葉を話していても、まったく異なる話をしていることはよくあることだ。そしてそれが誤解や喧嘩に繋がっていくことも、またよく知っていた。

「ならカッコをつけるのをおやめなさい。あまり気張りすぎると続きませんよ」

「つけてないって。弁当は俺の趣味でやってるだけだし」

「そのほうが重いですよ」

「えーっ!?」

 そうかなそうかな、とブツブツ繰り返して言う正義を眺めつつ、私は夕食を堪能する。どれがメインなのか分からない食卓は、正義の発言のようだった。もっとも、今となってはなかなか味わえない混沌の発言の数々をこうやって惜しむのは、育ちきった犬を見て、子犬の頃を懐かしむ飼い主のエゴでしかない。やはり私はズルい大人だ。このズルさが認められるようになったのと、軽はずみな行動を許すことはよく似ている。

 目をテーブルの中央に向ける。私が買ってきた花が蛍光灯に照らされて艶やかに光っていた。

「キャンドルで次は食事をしましょうか」

「みのるくんがびっくりするって」

「ムーディーで宜しいかと存じますが」

「お前の口からムーディーという言葉がでるんだな……破壊力がスゴいぞ」

 お前はいるだけでムードが出るからいいよな、と正義は唇を尖らせる。かく言う彼も酒が入ると大概とんでもないことになるのだが、ここでは追求しないでおく。

「ほう。どういうムードが生まれるのか、膝をつき合わせて教えていただきたいものですね」

「そりゃ、こうさ……何だろう、上質な香りが漂うというか……。宝石を砕いてぱっとばらまいたみたいな……」

「私はルームフレグランスですか?」

 そう訊ねると正義はこくんと頷いた後、テーブルに突っ伏して肩を痙攣させはじめた。胸でも痛いのかと訊ねれば左右に首を振り、一拍置いて正義は笑い出した。発作でも起こしたかのようだった。

「や、やめてくれよっ! 笑いのツボに……入っただろ……っ!」

 幽霊でフレグランス……と正義はひとりで笑い続けている。私は笑い病患者を放っておいて食事を再開する。八宝菜も魚の煮付けも大変に美味しい。気がつけば茶碗がからになり、お代わりをつぎに行こうとすると、

「俺がやるからいいよ」

 と、目尻に涙を浮かべ、身体をくの字に折ったまま正義が立ち上がる。

「お前にやらせると、米がはじけ飛ぶよ。農家の方に申し訳が立たない」

「あなたの言葉に反論できる証拠がありません。お願いしても宜しいでしょうか」

「おう」

 正義は私の手から茶碗を取るとこんもりと白米を盛って目の前に置いた。

「あ、盛りすぎた?」

「すべていただきますのでご心配なく」

「いま、夜の二十二時だぞ」

「夕食にケーキを食べていたころに比べたら大変に健康的です」

「あれはぶったまげたな。平気な顔をしてぱくぱくと食べていくんだから」と再び座った正義が顔をくしゃくしゃにして笑う。さっき笑ったおかげで表情筋が緩んだらしい。

「今日も結構なものをありがとうございます」

「明日も結構なものを出すよ」

 言うようになったものだ。しかもこの言葉に嫌味はない。正義がそういうならば、明日も素晴らしい食事が出てくるのだ。

「お前が食ってくれると、とても嬉しい」

「あなたはいつまで経っても曇ることを知らない。よく研磨されたクリスタルのようです」

 彼の目に映った私は何分割されているのだろう? それともひとつの像を保っているのだろうか? そんなことを考えていると正義が頬を掻きながらこんなことを言う。

「リチャードに虹をプレゼントできるな、俺がクリスタルなら。太陽の光を受けて」

 あ、でも太陽はリチャードなんだよなあ、と腕を組む。私は頭を振って言った。

「あなたも太陽ですよ」

「みのるくんにとって、そうなれたらと思うよ。でもそこまで絶対的な存在になりたくないんだ。お助けマンぐらいでいい」

「しかし私は太陽だと、そうおっしゃる。私の横には並び立たないご予定で? あなたは月ではありません。私の――……」

 私の、ともう一度繰り返す。私の、の次が言えたら、この均衡は崩れる。この直感は正義にもあったようで、「俺、明日の仕込みするよ」とキッチンに行ってしまった。

 薔薇に降らせた雨を止ませたかと思ったら、次はその雨の降らせ主にフォローされてしまった。こういうとき痛感する。

「いえ、いつもですね……」

 正義が自ら成長し、この世界で生き抜く術を身につけていっているのだと。そして喜ぶべきだと分かっているのに、いま私は素直に喜べない。正義の野菜を刻む音に紛らわせるように小さな声で呟く。

「親が、子どもを子どものままにしたがるのが、分かったように思います」

 いつまでも頼りにして欲しい、というのはエゴそのものだろう。決してそんな独善的な愛は求めないといつぞや誓っていたのに。

 つくづく正義と過ごしていると感じる。

 感情とは想像するのではなく、味わってこそ実感がわいてくるのだと。

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