ラベル

2025年7月2日水曜日

薔薇に雨、指に時間、星に光を 第一話 リチャ正

 1 指輪の似合いそうな手



 一分一秒を惜しいと思ったことなんて、俺はリチャードに出会うまでなかった。

 どちらかといえば、早く過ぎ去ってくれと祈っていたように思う。さっさと大人になって、一人前に金を稼ぎ、ひろみを楽にさせてやりたい、そればかり考えていた。

 この考えは俺にとってはお守り、指針みたいなもので、何かを決断するときには必ず持ち出していた。もっと言えば、俺の生きる価値というのはそこにしかなかったのだろう。みのるくんを見ていると、その頃を思いだして胸がきゅっと痛くなる。

 俺はみのるくんに染みついたこの考え方を、少しずつ和らげられたら、と思う。俺にとってのリチャードがそうであったように。俺のあまり健全とは呼べない、しかも意識できない価値観は、リチャードと出会ってからは少しずつ薄まり、あるいは形を変えていった。消えたわけではない。中田さんとひろみには親孝行をしたいとずっと思っているし、その通りに行動してきた。

 が、その一方で、俺自身についても真剣に考えたい。

 こんな考えが浮かんでくること自体がおかしなことなんだろう。リチャードの秘書となって、自分のやりたいことがはっきりした今だからこそ、考える余裕が生まれてきたのかもしれない。いま振り返ってみれば、俺の周りにいた同級生は就職活動をする頃には、今の俺と同じ境地に達していたのだろう。そんな同級生からしたら、俺は変な奴に見えたに違いない。自分がどうしたいかではなく、自分の活用方法ばかり考えて、欲を出さない人間なんておかしい。でもそのころ、俺の欲……本心とでも言うべきか、それは奥深くに潜んでいて、そこにたどり着くまでに数年を要してしまったということだ。

 キーボードを叩く手を止めて、大きく伸びをする。そしてふと横を向けば、俺の稼ぎでは一生住めなかっただろう高級マンションから見える夜景が出迎えてくれる。このマンションに来た当時は、見慣れない風景に足の裏がムズムズしたが、いまはいい目の目の休憩だとよく眺めるようになった。それでも一番、俺の目を休めるのは――……

「って、お前どこから!?」

「玄関から以外、他にありますか?」

 と、俺の前に音もなく現れたリチャードは形の良い唇の端をわずかに持ち上げて笑った。自称幽霊だと言うだけある。一応足があるか、透けていないか確認にまじまじと見ていると、リチャードは呆れ声で言った。

「根を詰めすぎでは? 入ってきた私に気づかないとは」

「だって今、商談が平行で五件……時差がなあ……」

 思わず大きな欠伸が出る。このやり取りが日本国内オンリーだったらもっと早く、スムーズなのだろうが、海外とのやり取りが大半なので、なかなか前に進まない。それはキャンディも一緒といえば一緒だが、どうも日本にいるとせかせかしてしまう。思うに、日本では強制的に休むタイミングがないからだ。例えば、突然停電だとか、インターネット回線がダウンとか、自分の力ではどうにもならないトラブルだ。こういうトラブルが起きたら俺は諦めてジローとサブローを抱いて寝てしまう。騒いだってどうにもならないからだ。これがいい休憩だったんだな、と、小さく息を漏らせば、リチャードは俺の横に来るなりパソコンを閉じてしまった。

「今日はここで終いにしなさい。あなたはよくやっています」

「あーっ! まだ保存してない」

「オートで保存されています。さっさと風呂に入れ」

「さっき入ったぞ。スーツを着ているのは、この格好でないと捗らないからで!」

「もう一度入りなさい。休まった人の顔ではない」

「それならリチャードが先だろ。お前こそ今日も会食だったんだろ。もっと俺に仕事をまわしてくれていいからな」

 リチャードは会食に呼ばれることが多い。三回誘われたら二回は断るが、一回は行かねばあちらの顔も立たないと出向く。このつれない態度がまたリチャードを誘いたくなる一因だ。リチャード本人だって分かっているだろうに、三回とも会食に行くよりは、二回断って一回行く方が楽らしい。

「十分楽させてもらっています。正義、刺激を減らすことが平穏だと考えているならば、少々間違いかと存じます」

「お前、俺がスイスの山小屋を検討していたこと知ってた!?」

「いいえ。ですが私がそんなところに住んで喜ぶと考えているのなら、滝行にでも行きなさい」

 そう言ってリチャードは俺の横に座るとビジネスバッグから小説を取り出した。話はここで終わりという合図だ

「シャワー浴びてくる」

「最初からそうしなさい」

 本のページをめくりながらリチャードは言った。言うことを聞かない子どもを宥めるような響きがそこにあった。俺は大人しく脱衣所で服を脱ぎ、バスルームに入ると独りごちた。

「……そうだよな、リチャードは、人間は好きなんだよ、な」

 でなければセールスマンなんて選ばないだろうし、これまでの経歴から考えても、望めば人とできるだけ接触しないような仕事にだって就こうと思えば就けたはずだ。

 だが俺はスイスの山小屋にふたりして引き籠もることを考えていた。偽ることを知らない自然に囲まれて、好きなだけ本が読めたらどれほどリチャードが幸せだろうかと想像していたのだ。

 この子どもじみた発想に俺は一時期夢中になって、真剣に取り組んでいたのだが、結局様々なハードルをクリアするのが難しそうだ、と分かり諦めた。しかし日本に落ち着いた今なら、この発想に薄ら寒いものを覚える。

 なぜスイスの山小屋なのか。

 リチャードを他者の視線から守るだけなら、別にスイスでなくてもいい。大都会東京でも姿を隠して生きることは不可能ではない。なのにわざわざ隔絶した地を選ぶのか。リチャードからすれば『いつものあなたの極端な発想です』と苦言するに留めるのだろうが、甘い。甘すぎる。ここでリチャードは徹底的に俺をやっつけておくべきだったのだ。

 俺はリチャードを、自分だけが知る美しい檻に閉じ込めてしまいたかったのだ。

 俺は俺だけがリチャードの友人だと思い上がっていた――わけではないが、リチャードの振る舞いや発言を聞いていると、まるで俺がリチャードの世界における幸福の基準になっているように思えてくるのだ。

 もちろん友人なのだから、ある程度は関わってくるのは分かる。だが、日本に戻りたい旨を伝えたとき、リチャードが快諾するとは予想外だった。俺だってリチャードと離れたいわけではないが、それは……まるで、俺さえいれば特にこの世に生きるのに支障はない、と無言の内に伝えられたような感じがする。

 この生活もリチャードを捕らえる罠だ。

 ここにつなぎ止めておくための鎖、檻。

 俺といるとこんなメリットがありますよ、を伝え続ける暮らし。キャンディではこんなことを意識していなかった。リチャードを喜ばせたい一心だったし、力になりたいのもまた本心だ。

 いつからだろう。

 リチャードを手放したくない、と思うようになったのは。

「……ズルくなったよなあ」

 大学生のときの俺が今の俺を見たら驚くだろう。こんな風にエゴイスティックになるとは!

 俺だってもっと良い男になりたい。リチャードが目を離せなくなるような男だ。いまのような、「心配だから目が離せない」は卒業したい。みのるくんの前でカッコをつけていることを見抜かれているようではまだまだだ。

 シャワーを浴びて、軽く髪を洗って上がる。バスタオルでざざっと身体を拭き、パジャマに着替える。そしてタオルを首に掛けてリビングへ顔を出す。リチャードが本から顔を上げて、怒りとも呆れともつかない目のきらめきを俺に向けてきた。

「乾かしてきなさい」

「リチャードが乾かしてくれるかなって」

「乾かしながらでは話ができないでしょう」

 乾かすのが手間だの、甘えるなだのではなく、一発で本心を見抜いてくるのがこわい。これまでは嬉しいと素直に思えたのに。

「でも俺もリチャードと話がしたいんだよ」

 と、隣に座ってジローみたいに身体を擦り寄せれば、リチャードは鼻を鳴らした。そして俺が首にかけていたタオルを手に取ると、頭にふわりとかけて一気に拭き上げにかかってきた。まるでジローとサブローを拭いているときと変わらない。この雑な感じが好きだ。いかにも信用されているようで。

「まあ、これでいいでしょう。そして少しお腹がすきました」

「冷蔵庫のおにぎりを温めるよ。あ、でも白むすびなんだよな。卵焼きでも……」

「それで十分です。自分でやるのでおかまいなく」

 と、みのるくんより怪しい手つきで電子レンジを操作した自称幽霊はミネラルウォーターをふたつのグラスに注ぎ、おにぎりと一緒にお盆に載せて運んできた。

「あなたも食べなさい。疲れた顔をしている」

「お前もな」

 そう言い返せばリチャードはくすっと笑った。顔に張り巡らせていた見えない糸が解けたとでも言うように表情が緩んでいく。

「ああ、やっとほぐれてきた」

 このリチャードの言葉に俺が手のグラスをおろし、じっと見つめれば、リチャードは片眉を上げた。

「あなたが心配するようなことは何も。ただ、意識を切り替えるのに少し時間がかかっただけです。本を読めばだいたい上手くいくのですが」

 それでも俺が見つめていれば、リチャードは大丈夫だというように俺の背を軽く叩き、グラスを手に取って水を飲んだ。こうすれば俺も水を飲むだろうと手本を示すかのように。俺はしぶしぶ一口だけグラスの水を飲んだ。澄んだ水なのに、妙に苦い味がした。 

「そんなこともあるんだな」

「あなたが考えるほど私もパーフェクトではない。そういうことです」

 年も取りましたしね、と喉の奥でくくっと笑い、白い手を伸ばしておにぎりを掴んだとき、無意識のうちに唇が動いた。

「指輪の似合いそうな手」

 深いブルーのサファイヤもいいし、シンプルなプラチナでも映える。そんな指だった。前からずっと思っていた。リチャードの指ほど指輪が似合いそうな手はないと。この失言に気づいたのはリチャードの青い目に射られたときだった。反射的に弁解の言葉が出る。

「悪い。綺麗だと言いたかっただけなんだ」

「そんなことは分かっている」

 リチャードはそう言っておにぎりを一口頬張った。味わうようにゆっくりと噛む。それ、俺が自分の手で握ったんだよな、それがリチャードに噛まれているのか、とぼんやり見つめていれば、額を指で弾かれた。

「あなたは頭を冷やしなさい」

「そうする」

 俺は頭を掻きながら立ち上がり、またバスルームに籠もった。そして頭から熱い湯を被った。頭に浮かぶワードを洗い落とすような勢いで髪を洗う。だがどう髪を洗おうが脳みそから考えが消えるわけじゃない。それどころかますます思考がクリアになっていくだけだった。

 それはひどく明朗な本心で、俺を痛めつけるには十分すぎるほどで。

 俺は風呂から上がると適当に髪を乾かし、今度は真っ直ぐに自分の部屋に入って寝た。













0 件のコメント:

コメントを投稿

甘い煉瓦の家・リチャ正

    甘い煉瓦の家  ――横浜。  これまでホームグラウンドだった東京銀座を離れれば、リチャードが満足するようなデザートにはなかなか巡り会えないのでは……。  と雇われ秘書の俺は危惧していた。あの東京銀座から新宿のデパ地下を制覇し、商談でなくデザート談義をしに来るおばさま方にも...