ラベル

2025年7月24日木曜日

甘い煉瓦の家・リチャ正

    甘い煉瓦の家




 ――横浜。

 これまでホームグラウンドだった東京銀座を離れれば、リチャードが満足するようなデザートにはなかなか巡り会えないのでは……。

 と雇われ秘書の俺は危惧していた。あの東京銀座から新宿のデパ地下を制覇し、商談でなくデザート談義をしに来るおばさま方にも一目置かれているリチャードだ。そんな甘味大王が、横浜で満足できるのだろうか?

 あ、もちろん、横浜にだって美味しいお菓子はたくさんあるだろう。スリランカの素朴なお菓子だってリチャードは喜んでいた。

 デザートに貴賤なし。

 それは分かっている。

 が、リチャードが以前、『新宿のデパ地下はエデンですね』とうっとりとした目つきで言っていたのを知っている身としては、横浜に拠点を置くのは少し気が引けるのだ。

「なあ、リチャードはエトランジェがメインだよな」

 横浜に着いた初日、まだ前住人の気配が漂うマンションで荷ほどきをしながら訊ねれば、ソファに消臭剤をぷしゅぷしゅとかけながらリチャードが答える。

「はい、その予定です。外での商談は正義にお任せします」

「ならおやつ問題はまるっと解決だな。あー、でも俺が買いだしに行きたかったなあ。この時期だと桜のデザートがあって……、綺麗なんだよなー、ザ・日本って感じで」

「何の話をしているのですか?」

 窓を開け、空気を入れ換えながらリチャードは言い、今度はカーテンに消臭剤をぷしゅぷしゅやり始めた。この調子だとドラッグストアで買ってきた消臭剤は一日で使い切られるだろう。ジェフリーが見たらショックを受けそうな光景だ。

「俺、横浜は詳しくないんだよ」

「要点を早く言いなさい」

「あー……ええと……」俺は頬を掻く。「デザートの買い出し、俺にもさせてくれ! 横浜にお前が気に入るのがあるかは分からないけどっ!」

 と、手を合わせて拝めば、消臭に勤しんでいたリチャードの動きがぴたっと止まった。そして大きく深呼吸すると俺の方にやって来て、軽く頭をチョップされる。 

「このたわけ」

「へ?」

「私のデザート係を自認するのは構いません。が、それならあなたが探せ。次のステップに進むいい頃合いです」

 デザートのお使いにステップなんてあったのか、と言えばまたチョップされるだろう。それにリチャードの言うとおりでもある。俺だって二十歳のときからリチャードのデザート係をしてきた。リチャードの好みは知り尽くしている、と自認している。

「明日、私はエトランジェに午前中だけ顔を出しますから、その間にあなたに横浜でのデザートの買い出しをお願いします。日本に帰ってきたお祝いをしましょう」

「分かった! しっかりリサーチして買ってくるよ」

 と、こんなわけで――、俺の横浜デザート探しははじまった。

 観光地とだけあって、銘菓は種類豊富だし、訪れる観光客狙いのパティスリーも多い。ただ個人店は冒険だ。基本的に人気店にハズレ無しなのだが、タイミングによっては売り切れることもある。俺は仕事の合間に買いに行くから、できれば『行ったら必ず買える』のがいい。そしてあんまり食べたことが無いようなデザートがいい。

「……これだ」

 リチャードがとっくの昔に自室に引っ込み、夢の国に旅立っているころ、これぞという洋菓子を俺は発見した。即座にブクマ。明日はオフだから、朝一で行こう。

(リチャードも明日は休みなのに、店に顔を出すのは律儀だよな。まあ、懐かしさもあるよな)

 俺も一緒について行きたかったが、そうなるとふたりで銀座のパーラーでぼうっとしてしまいそうだ。それに今回は俺の方が事情があってやることが多い。ささっと買えれば良いのだが。

「よし、俺も寝よ」

 この日の夢見は最悪だった。お目当ての店の行列がいつまで経っても終わらないのだ。目覚めてからもその懸念は消えず、開店する三十分前には店前についていた。

「よかった……並んで、ない」

 観光客こそちらほらいるが、そんな列を成すほどではない。安堵から周辺をぐるっと見て回り、開店と共に店に入る。そして……。

「こんな簡単に手に入るとは。やっぱ日本はすごい」

 ――海外暮らしを経験してから痛感するが、『時間通りに店が開く』『売り物が揃っている』ってものすごいことなのだ。テストに出るな、これは。

 それからは急いで帰宅する。要冷蔵だと言われたのだ。そこで冷蔵庫の特等席に買ってきた洋菓子をしまう。

 リチャードの反応を楽しみにしつつ、昨日の荷ほどきを再開すれば、当の本人から連絡が入った。

『もう帰ります。昼飯も家で食べます』

 簡素な連絡はいつものことだが、ちょっと心配になった。てっきりお気に入りの店で食って帰ると思っていたからだ。

「まあ、リチャードも疲れてるか」

 そんなときは家でゆっくり食べるに限る。と、急いで米を仕掛けてスイッチオン。近くのスーパーでぱぱっと買い出しをして、簡単な昼食――卵焼きにウィンナー、ゆでたブロッコリー、そして最後はほかほかのおにぎりだ! おにぎりさえあれば、どんな食卓も豪勢さ三割増しに見えるのは俺の思い込みだろうか?

 と、最後のおにぎりを握ったとき、リチャードが戻ってきた。グッドタイミングだった。冷えたおにぎりも美味いが、温かいおにぎりはもっと美味い。リチャードに座って座ってと急かし、食卓に作ったものを並べる。

「わざわざ重箱に詰めたのですか」

「雰囲気出るだろ? こういうのは日本ならではだし」

 いただきます、とふたり声を合わせて言い、食べはじめる。米の味が身体にしみる。俺はどこの国の料理も美味しく頂けるが、やはり祖国の味は美味い。美味すぎる。リチャードはおにぎりを片手で持って食べつつ、神速の箸さばきで口の中におかずを放り込んでいた。まるでブラックホールみたいな食いっぷりだった。

「もっと作ればよかったかな?」

「デザートがあるでしょう」

 男ふたりで三合をぺろっと平らげるのは珍しくない、が、十五分かそこらで空にするのはおかしい。リチャードも俺も日本の米の味に飢えていたのだろう、きっと。俺は食器を下げると、咳払いして言った。

「では不詳、中田正義が選んできたデザートを発表致します。それは――、こちらです」

 と、冷蔵庫から出したデザートを箱のまま皿に載せ、リチャードの前に置いた。このデザートは箱から見て欲しいと思ったのだ。

「ほう、横濱煉瓦……フォンダンショコラですね」

 と、リチャードは興味津々といった面持ちで小箱を持ち上げると、まるで繊細なジュエリーを扱うかのように箱を開けた。そして中のフォンダンショコラを皿にあけ、フォークで感触を楽しむように切り、一かけ口に運ぶ。

 ――緊張の一瞬。

 かの甘味大王を満足させられるのか、と心臓をばくばくさせていた俺の心配はすぐに霧散した。リチャードは一口目を無言のまま味わうと、そのまま二口目に進んだ。何も言わずにただ横濱煉瓦を味わうことに集中している。と思いきや、リチャードの足がぱたぱたと動いているのが振動で伝わってくる。

 これは訊かずとも分かる。

 リチャードの審査、合格だっ!

 ほっとした気持ちでロイヤルミルクティーを入れ、甘い煉瓦を堪能するリチャードにサーブする。待っていましたと言わんばかりにリチャードはロイヤルミルクティーを飲み、法悦のため息をつく。

「この煉瓦で家を作ったら、さぞ甘い家でしょうね」

「冬なら作れるぞ。あ、クリスマスの時期にいいかも」

「私も協力しましょう。設計図ぐらいは引けます」

「お前が引いたら、家でなくてキャッスルができそうだ」

「いいではありませんか。たくさん食べられて」

「さぞかし食べがいのある城だよ」と俺が笑いながら言えば、リチャードはしれっとこんなことを言って俺にキスをした。

「あなたほど食べがいのあるデザートはありませんでしたよ」


 ――日本帰国二日目の午後は、ベッドで過ごすことになった。

 一日ぶりのリチャードの腕の中は、甘いチョコレートの香りがした。

2025年7月21日月曜日

夏休みのマイリトルパピー・リチャ正

「静かだなあ……」

 みのるくんは友達と朝一で出かけ(夏休みっていいよな)、俺は俺で、ジローとサブローの散歩からこまこました家事もすべて済ませた。あとはリチャードが起きてきて、朝食を食ってくれたらいいのだが……。

 ちらり、とリチャードの部屋がある方向を見、俺は頭をかいた。

 なんというか、こう、起きてくる気配がない。それなりに長い年月一緒に過ごしていると分かってくるもんだ。

(朝、弱いもんなぁ)

 重度の低血圧、そのせいで寝起きはすこぶる悪く、幽鬼のような顔をしていることもある。だからか知らないが、夜には滅法強い。というか、本調子が出てくるのが昼過ぎで、一般的な人よりピークポイントが違うだけかもしれない。

 しかしそろそろ十時だ。

 今日は休みで、寝過ごしてもらってもちろんいいのだが、あまり寝過ぎると明日に響く。そろそろ起こすか、と手持ち無沙汰から手にした新聞をテーブルに置き、リチャードの部屋に向かう。ほんの十数歩でつく距離だが、いやに心臓が高鳴った。

 深呼吸、そしてまずはノック。

 コンコン、という音がよく響く。まるで空の樽でも叩いているかのようだ。そしてこんな音で起きるほどリチャードの眠りは浅くない。

「入るぞ……」

 小さな声でいいつつ、ドアを押し開く。薄暗い。完全遮光カーテンのはずだが、それでも隙間から夏特有のギラついた光が入りこんでいる。そしてこんな薄闇で見るリチャードは、まるで物語の世界から抜け出てきた王子のように美しかった。思わず見とれそうになって、ふるふると頭を振る。

「リチャード、起きろ。さすがにもういい時間だ」

 と、肩を軽く揺さぶれば、くぐもった声が上がる。おい、とさらに強く揺さぶると、手首をいきなり掴まれた。そしてぐいと引っ張られた。

「……リトルパピー」

「ちょ、おい! 寝ぼけているのか?」

「……パピー」

 駄目だ。子犬にたくさん囲まれている夢でも見ているに違いない。そんなときに起こしたら事だ。数日は恨み言を言われる。今日は好きなだけ寝かせよう、と俺がリチャードの手を剥がそうとしたときだった。

「来て下さい」

 と、リチャードにベッドに引っ張り込まれた。そしてそのままキスの嵐だ。ガトリングガンだ。あまりの強烈さに頭がクラクラする。その隙を逃さないと、リチャードにのし掛かられてまた肌という肌に唇で触れられる。

「ま、まて! 嬉しいけど、おまえ、夢の中で子犬が百匹ぐらい出てきているのか!?」

「はい? 違いますよ。あなたにしたいだけです」と今度はとびきり濃厚なのをぶちかまされる。これまでリチャードとキスを幾度となくしてきたけれど、今日のはなんだか、とびきりドカンときた。最後にリチャードは首元に顔をうずめてふんふんと匂いを嗅いでくる。

「ふう、あなたの匂いを嗅ぐとほっとしますよ」

 と、耳元で囁かれる。どくん、どくんとリチャードの心臓の音が伝わってきて、そこに俺の鼓動も重なる。肌がしめっていくのが自分でも分かった。

「……俺も。お前はいい匂いがするよな。誰とも違う。香水のおかげかな」

 そう言ってリチャードの背中に手を回せば、

「あなたもですよ」

 と、甘ったるい声と共に囁かれて身体の芯が熱くなる。これはマズい。俺は努めて声をからりとさせて言った。

「ところで、そろそろ起きないか? もう十時過ぎだぞ。これで目が覚めただろ?」

「起きません」

 と、俺の首筋にも唇を押し当ててくる。

「おい、やめろって……!」

「止めません」

 するりとシャツの下にリチャードの手が入りこんでくる。息が詰まる。このままリチャードに身を任せるか……。


 ――ピンポーン。


 このマンションに似つかわしい高級な音色と共に、俺は一気に現実に引き戻される。リチャードの下から抜け出して、襟元を整えてインターフォンに出た。


『お届け物ですー』

「はーい」


 そう明るい声で返事をしながら、背中にのし掛かってくるリチャードの背中をぽんぽんと撫で、ごく小さな声で言った。


「また、夜に。今日はみのるくん泊まりだから」





2025年7月19日土曜日

アイスクリームはキスの味・リチャ正



 ――限定品。

 なんたる魅惑的な響きでしょうか!

(と、リチャードが熱く語ったんだよな……びっくりした……)

 世をすべて見通しているような顔をして、その実、甘味に目はなく、ちょいとばかり臆病で、しかし若干兄貴風を吹かせてくる(あ、怒られるな)、俺の雇い主は、現在事務所で缶詰だ。これは珍しい。そこで俺が今、コンビニに向かっている。限定品のアイスを求めて。

(問屋がこれまでずっと『売る』と言ってた石が、いきなり『駄目。他が高く買うと言ってきた』と言ってきたら、そらね……)

 この世界ではよくあることではある。リチャードは世界一のセールスマンだが、超大手のブランドと競合すれば負ける。そもそも超大手ブランドと、エトランジェとでは、提供するジュエリーに差がある。

 ブランド会社は、その高い宝飾技術とジェムの質の高さ、そしてブランドの歴史をひっくるめてジュエリーに込めている。値段は数千万クラスがゴロゴロ。宝石で天体図を表現した時計を売り出している某ブランドの腕時計は、『誰が買うんだ』と絶句するほどの高値だが、まあ、いるのだ。

 一方、エトランジェでは個人の思いを優先する。セミオーダーもフルオーダーも可能だ。こんなのは大手ブランドでは超お得意様でしか受けてくれない。俺は個人の願いを叶えるというエトランジェの姿勢が好きだ。そしてリチャードの顧客に寄り添う接客を心から尊敬している。そして、エトランジェが細やかな接客ができるのも、問屋との強い繋がりがあるからで、それをこんな風にぶった切られてはたまらない。

 こうなると俺の出る幕はない。そこの問屋はエトランジェにとって生命線だからだ。たぶん、手打ちは取引価格のアップだろう。ここをペーペーの俺に任せられても、丁寧に辞退する。さすがにここはリチャードの出番だ。

「えーと、エイトイレブン限定品だよな」

 某有名アイスクリームとのコラボで、ラムレーズン。そんなの通年で売っているじゃないか、と一瞬思ったが、リチャードが言うには、使われている洋酒やレーズンが違うらしい。甘味大王らしく、そこのチェックを怠らないところが面白い。

 で、一軒目。

 アイス売り場を見て目が点になった。

「……ない」

 コラボを示すポップはあるが、アイスは払底している。念のため店員に確認したら「売り切れです」と申し訳なさそうに言われてしまう。昼過ぎだよな、いま、と思わず時計を確認して、俺は額を押さえた。

 ――これは、長い戦いになるかもしれない。

 この俺の予想は嫌なことに当たった。

 二軒目、三軒目、四軒目までない。嘘だろと言うぐらいない。たぶん人口過密な東京という土地柄もあるだろう。いっそのこと、横浜で探した方が良かったかも……と思った五軒目で、ようやく巡り会う。

(ラムレーズン様!!)

 手を伸ばそうとしたそのとき、ぱっとそのアイスが消えた。びっくりして思わず目を上げれば、スーツ姿の女性と目が合った。彼女の手にはおにぎりやサラダがある。

「あ、ごめんなさい」

「いえいえ、どうぞ。そちらが先でしたので」

 俺にはとても、OLの楽しみを奪うなんてできない。それに先に取ったのはあちらだし、と理屈をつけて涼しい顔にてコンビニを出、灼熱のアスファルトに膝をつきそうになる。


 やっちゃった――……。

 

 もう思い浮かぶエイトイレブンはない。横浜で探そう。そう頭を切り替えようとしたが、がっくりとくる。


「正義、買えましたか?」と目で聞いてくる。俺は左右に首を振った。そしてスマホに打ち込んで見せた。


『ラス一見つけたけど、他の人に譲った。そっちの人が先だったし。横浜で探そう。代わりにノーマルラムレーズンを買ってきた。冷蔵庫にいれとくな』


 するとリチャードは電話口に超早口で『少し待て』と言い、保留にする。そして――。


「今、食べます。開けてください」

「え、いま? 電話しながら食うのか、器用だな」

 ノーマルのラムレーズンであることにお咎めがないのはありがたい。カップふたを外し、スプーンをキッチンから持ってきて渡そうとすれば、リチャードは電話に戻っていた。そこで静かにアイスとスプーンをデスクに置こうとすれば、目で呼ばれた。そしてアイスとスプーンを交互に見る。

(あ、食わせろってことね)

 片手は電話機で塞がっていて食べづらいのだろう。俺が一口分すくって食わせようとすれば、ぷいと顔を背けられる。しかも何度も。そんなことをしながらもペラペラ喋っているのはさすがとしか言いようがないが、俺としてはたまったもんじゃない。

「おい、溶けるって。これは俺が食うからな」

 と、俺がひょいと食えば、ついでにリチャードの唇も食いついてきた。熱く乾いた感触に心臓が飛びはねる。最後にとどめとばかりに舐められて、背筋に心地よいゾワゾワ感が走った。

「えぇ、限定品は美味しいですね」

「は、え、これは普通の」

「あなたというトッピング付きのね」とさらりと言ってリチャードは電話に戻った。さっきよりもずっと絶好調なしゃべりっぷりで。俺はぷるぷると頭を振ると、アイスにふたをして冷凍庫に突っ込んだ。これ以上一緒にいたらとんでもないことになる!


 その後、商談が上手くまとまったのは言うまでもない。

 ついでに横浜で限定ラムレーズンアイスも見つかった。

 そしてもちろんというか、やっぱり俺が食わせる役目になって、そこから先は……言えないっ! キスの重みを分かってるのか、あいつは!(分かっていてやってるに決まってる)

2025年7月18日金曜日

マイリトルパピー・リチャ正

  ――今日も良い天気だ!

 ベランダに洗濯物を干し終え、部屋に戻ってくるとソファでリチャードは新聞を読んでいた。お茶は空だ。お代わりを所望されるかな、と足音を殺してキッチンに向かっていれば、

「マイリトルパピー」

 と、音楽のようにリチャードが呟いた。思わず立ち止まって聞き惚れてしまうほど美しい発音だった。こんな風に呼ばれたら、即座に尻尾を振って飛びついてしまうだろう。そうしたら待てだと叱られるのだ。

(しかしマイリトルパピーって……?)

 新聞にそんな記事があったのだろうか?

 根っからの犬好きであるリチャードは、新聞でもネットでも犬関係の記事を読むのが大好きだ。動画の履歴なんかほぼ犬で埋まっているんじゃないんだろうかと思う。

「マイリトルパピー」

 もう一度リチャードが言う。リチャードが新聞から本に持ち替えている。あの本も犬関係か? それとも……ジローとサブローのことを呼んでいるのだろうか? それとも犬成分が足りなさすぎて、恋しさ余って呼んでいるのだろうか? その手の抑制の効くリチャードにしては珍しい、と首をかしげつつ訊ねる。

「リチャード、ジローとサブローはまだ検疫中だよ。それともイマジナリードッグでも見えてる?」

「マイリトルパピー」

 今度は俺の目を真っ直ぐに見て言ってきた。俺の頭の上にイマジナリードッグが載っかっているのか? 目だけ上げて見つめれば――当然だが天井しか見えなかった――、リチャードが甘さをまぶした話し声で告げる。

「あなたのことですよ、正義」

「は、俺?」

 と自分で自分を指させば、リチャードは大きく頷いた。そしてさも当然のように言い放った。

「マイリトルパピーはあなたしかいません」

「あのさ、俺、結構デカいと思うんだけど……?」

 犬にたとえるなら柴犬どころかゴールデンレトリバーぐらいはあるだろう。たぶん。するとリチャードは目を細め、珊瑚色の唇で呟く。

「私にとってはマイリトルパピーです。さあおいで、マイリトルパピー。お茶はあとでいいですから」

 こう言われて飛びつかない犬がいるだろうか?

 俺はキッチンから飛び出すと、子犬のような気持ちでリチャードに抱きついた。俺の腕の中でリチャードが肩をすぼめておかしそうに言う。

「体格だけはリトルパピーのそれではありませんね」

「でないとお前を抱きしめられないよ」

「おやおや、これで抱きしめていると。私が手本を見せましょうか?」とまるでぬいぐるみに頬ずりするようにリチャードが顔を寄せ、額に口づけをする。思わずぎゃあと声が出て、リチャードがくくっと笑った。

「今さらでしょう。私のかわいいマイリトルパピー、どうしてあなたはこんなに愛らしいのでしょう?」

「いやいや、寿命が十年縮んで三十年伸びたぞ!」

「その理屈でいくと、キスをするだけ寿命が延びますか?」

 とんでもなリチャードの発言に、一瞬、朝のロイヤルミルクティーにブランデーでも垂らしてしまったかと思ったが、これが結構、割と平常運転だったことを思い出した。リチャードは吹っ切れると強いのだ。本人もそれを分かってか、あえて悩んでいるのでは、と思うことが俺はままある。

 まあとにかく、いま、みのるくんが学校に行ってくれていて心底良かったと思った。

 だって、俺もリチャードにキスをしまくって寿命を延ばしたいと思ったもんな。

 そして、リチャードもそう思ってるんだ。



2025年7月17日木曜日

国主は甘いものがお好き・リチャ正(2)



 ――夢みたいな一日だったな。

 別れ際に渡された術符を指先でつまみ、正義はほうと溜息をついた。リチャードと行動していたのは半日のさらに半分程度だろう。が、まるで幻想でも見ていたような気がする。

(あいつ、綺麗すぎるんだよ!)

 龍の化身ならさもありなん、と納得しようとしたが、それを遙かに飛び越えていた。動く美の概念とでもいうか……。少なくとも正義はリチャードより美しい存在を見たことがない。身にまとった豪奢な縫い取りの長衣が霞むほどだ。リチャードにまた会いたいか? と問われれば、もちろん会いたいのだが……。

「どう考えても気まぐれだろ。使いやすそうな下っ端だから呼び出したんだ……ってあたっ!」

「大きな独り言だな」

 ぼん、と書類綴を正義の頭に載せて上司が正義を睨み付ける。周囲の視線を感じ、正義が愛想笑いを浮かべれば、もう一度叩かれた。

「二発は卑怯ですよっ!」

 思わず文句を言えば、やれやれと上司は正義の机の書類の束を置いた。

「さっきから一時間、術符を眺めていたぞ。ほら、暇だろうから追加で仕事だ。今日中に仕上げろよ」

「えぇーっ!?」

 時計は十五時過ぎを指し、終業時間までは三時間といったところか。それでこの量は……、確実に残業行きだろう。今日は早く帰って、ちょっと凝った夕食でも作ろうかと思っていたのに。恨めしく上司を見やれば、

「お前がぼんやりしているからだ。他の奴らはもう取りかかってるぞ。ったく、月末なんだから気を抜くなよ」

 と、追加で説教を食らってしまう。上司の言うことはもっともだ。正義は術符を大切に鞄にしまい込むと、渡された仕事に取り組みだしたのだった。



 それから数時間後……。

「終わった終わった!」

 背伸びして首を回せば、所内はすでに暗い。ぽつぽつと他の机にも光は灯っていることに安堵しつつ、正義は帰り支度をする。

「ったく、あんなにたくさん渡すなよなあ」

 ぶうぶう言いながら書類を上司の机に置き、机の明かりを消して鞄を持つ。明るい時間はごちゃついた役所内もなんだか賑やかに見えるのだが、暗い時間みると薄気味悪い。整理整頓をせねば、と思うのだが、こんな東の最果ての役所でもなかなか忙しい。それもこれも、交通の要所であるカヌマを抱えていて、常に積み荷の報告確認が求められるからだが。

「でも、文句を言えるだけ幸運だよな」

 月が煌々と照らす帰り道、正義はぽつりと呟く。

 何の後ろ盾もない自分が、登用試験を突破して、こうやって役所に採用された。同僚には「いくら積んだんだ!?」と変な驚き方をされた。正義が役人になるなんて、微塵も思っていなかったのだろう。当たり前だが、袖の下を渡すような金はない。試験一点突破だ。しかもこれ、たまたま古い過去問でやったところが出たという幸運さ加減だったりする。

「俺の仕事はアズマに住む市民に奉仕すること!」

 そう、決して国父たる龍、リチャードに仕えることではない。もっとも、引きの目線で見れば、回り回って正義もリチャードに仕えている流れになるのだろうが、そういうことではない。自分がもっと良い家の出で、頭も良ければ、中央政府の登用試験を受けるという手もあったが、

「今さらだよな……」

 リチャードにもうひと目だけ会いたい、という理由だけで、いまの仕事をすべて投げ打つなんて、できそうにない。もう二十八歳だし、気をつけないとやり直しが利かなくなる年だ。先輩たちにも口酸っぱくして言われている。『嫁選びは間違えるな』と。

 だがここで、正義にはもう一言つくのだ。

『お前なら婿にいける。家事全般できるから』

「それだけで婿に行けるなら苦労しないっての」

 しかも家事全般を引き受けて、さらに役所仕事はさすがに……せめて家事折半で、と思いながら集合住宅の階段を上り、自宅に入って電気をつける。

 すると、

「お帰りなさい。遅かったのですね」

 と、涼をはらんだ声が奥から飛んで来て、正義は肝を潰しかけた。靴も脱がずに板張りの台所を突っ切り、畳敷きの居間をのぞく。

「こんばんは、お邪魔しています」

 小さく金色の頭が下がる。彼が頭を動かすたび、しゃらしゃらと綺麗な音を立てているような気さえする。その乳白の肌からは蜜でも垂れてきそうだ。

「……は、え、どちらさん……」

 驚きから口走れば、なぜか思い切り頬を引っ張られた。痛い。おかげで正義も多少なりともしゃっきりしたのだが。

「リチャード、だよな?」

 そうだ、とでも言いたげにリチャードは大きく頷く。

「何呆けた顔をしているのです。夕食でしたら持ってきました。靴を脱いできたらいかがです?」

 と、彼は目線を落とす。正義はぎゃっと飛び上がって玄関まで戻り、靴を脱いだ。この辺りはまだ石畳で舗装されていないので、靴がどうしても砂っぽくなる。雑巾で台所を拭き上げ、改めて居間に正座するリチャードの前に正義も姿勢を正して座る。

「ほ、ほんもの?」

「生憎、私は国父を語る存在には出会ったことがありませんね」

「だよな……って違う! また甘いもん食いたくて出てきたのか? 苺大福ならもう時期が終わったぞ。次はモモだ」

「モモ、いいですね。どこの地域が美味しいですか? できれば甘味だとなお良しですが」

「だったら」とまで言って正義は目を怒らせた。「そうじゃない。なんでまた俺の家に? お前は国父だろう。こんなところで油を売っていていいのか?」

「いえ、あなたを心配しまして。降格などの憂き目にあってませんか?」

 予想外の質問に、正義は机に突っ伏しそうになった。そんなこと、部下に報告でもあげさせればすぐに分かる。なのにわざわざ来た。それってつまり……。

「ば、ばかじゃないのか!?」

「……ほう」

 夜空をうつしこんだような瞳が、すっと細められる。長い睫の影が頬に落ちて、いやにきつい表情となる。

「心配してきたというのに、その言い草はどういう了見か。釈明なさい」

「悪い! 悪かったって。びっくりしたんだよ。お前に会いたいと思ってたら、家にいたなんてさ」

 手を合わせて正義が謝れば、少し機嫌を直したかのようにリチャードが二度頷く。

「左様ですか。ではどうして術符で来なかったのですか? お茶を支度して待っていたというのに」

 どこかズレた発言に、正義は頭を振った。

「あのさ、できるわけないだろ。お前に術符を渡されて、いつでもどうぞ、なんて言われて行ける下っ端役人なんていないぞ」

「でも前回は来られたではありませんか」

「それは仕事があったからだ」

「ほう。では仕事であれば、来られるということですね」

 言質を取った、と明るい顔をするリチャードに、正義は釘を刺す。

「やめろって! お前に迷惑がかかる。俺はお前を見られるだけで大満足だ。俺には何の支障もない。だから帰って大丈夫だ」

 本当はもっと話したいし、ふたりで何かできたらと思う。

 だが望むだけ虚しい。相手は国父だ。日々国の難事で忙しいはずで、こうやって正義のもとに来るのも本当は別の意味で難しかったはずだ。

これならいっそ、自分が行けばよかった。リチャードの手を煩わせるぐらいなら、降格覚悟でリチャードのいる宮殿に術符で飛べば、簡単に望みが叶ったのに。自分の変なところで押しが弱いところに肩を落とせば、リチャードが顔を寄せてくる。

「私は見るだけでは満足しない」

 そしてリチャードが宣言する。

「あなたを雇いましょう。案内人として」

「はい?」

 さっきから話が飛びまくっている。というか、一気に詰められたのだろうか? その判断をする前にリチャードが顔をのぞき込んでくる。

(あ、駄目だ……)

 この顔に迫られると、思考が停止してしまう。ついつい見とれてしまうのだ。自分の顔面の威力を知っているのかと問い詰めたい。そのくらい暴力的な美しさなのだ。リチャードを前にすると、どんなことにも「はい、喜んで」と二つ返事で引き受けてしまいそうになる。

「あなたの上げる報告書は面白い。ですから、この目で見てみたいのですよ。あなたが報告書で知らせてきた地域を。苺大福はそのきっかけです。あなたの案内は次第点でした」

「そんなの、中央政府の皆で……というか次第点って、あたっ!」

 リチャードがいつの間にか手に持っていた扇子で額を打ってきた。今日はよく怒られる日だ。しかしなけなしの自制心を繰り出してこれとは、と正義は額をさする。

「報告者の視点で見て回りたいのです。分かりますか?」

「わ、分かったよ。俺の知っているのは、アズマの一部だけだけど」

「構いません。ふふ、こうやって市井に出るのは久しぶりです。護衛がうるさいのですよ。私ひとりでも大丈夫だというのに」

「お前は楽しそうだけど、俺はもうひやひやだよ」

 それに外で目線を集めるのは、その美貌のせいだ、と言ってやりたかったが、なんだか指摘してはいけない気がして正義は口をつぐむ。

「ご安心なさい。正式な書面を送りますから。さあ、食事にしましょう」とリチャードが手を打てば、居間のちゃぶ台に料理が現れた。炒飯に春巻き、青野菜炒めと疲れた身体にありがたい。

「すげえ! これも龍の力か」

「そんなところです。料理は違いますが」とやや苦々しげにリチャードは言った。術で料理が作れないのがそんなに悔しいのか、と内心思いつつ、「いただきます!」と勢いよく食べ始める。これまで食べたことがないような味付けだ。なんというか、澄んだ味わいなのだ。たぶんこれが『高級な味』なのだろう。

「よい食べっぷりですね。デザートも持ってきたかったのですが、大変に崩れやすく断念しまして。やはり持ってくるべきでした」

「あるぞ。ちょっと待っていてくれ」

 と、箸を置いて正義は台所に大股歩きで向かう。そして賞与をはたいて買った冷蔵庫を開け、中からバットを取り出す。冷えたマグカップには黄色のプリンが美味しそうに収まっている。

「うん、できてる。リチャード、はい」

「ん……、これは……」

「プリン。中央住まいなら見たことぐらいあるだろう? 卵の賞味期限が危なかったから、昨晩まとめて作ったんだよ。ま、中田家の味ってやつだな」

 お前の口に合うか分からないけど、とリチャードの前におもむろに置き、スプーンを渡す。するとリチャードはそろそろとプリンをすくい、一口食べた。そしてその場でぷるぷると震えだした。きゅうっと引き絞られた目は、「おいしい」と言っているような気がするが……。

「あなたを料理人として雇います。役人にするには勿体ない」

「待て待て、話が飛んでるぞ。俺はちょっとできる程度だよ」

「ですが、この味は」とリチャードはぱくぱくと食べ進める。そのうち、眦に光るものが浮かんでくる。正義は前のめりになって訊ねた。

「な、泣くほど上手かったのか!?」

「黙らっしゃい」

「はい」

 正義が素直に腰を落ち着け、食事を再開すれば、リチャードは軽く眦を拭って言った。

「……大変良きものをいただきました。ありがとうございます」

「どういたしまして」

 ――その後、正義も自家製のプリンを食べたが、いつも通りのシンプルな味わいだった。どこにリチャードの涙を誘うほどの感動があったのだろうか?

「不思議だ……」

「何も不思議ではありません。では、また後日会いましょう。おやすみなさい、正義」

「ああ、おやすみ」

 変な会話だな、と苦笑いするころには、リチャードの姿は煙のようにかき消えていた。龍ともなると、移動に術符すらいらないようだ。正義は満腹になった腹をさすりながらごろりと横になり、リチャードとの会話を反芻していたが、突然起き上がって頬を抓る。

「いってえ……」

 間違いなく現実のようだ。しかしあり得るのか? リチャードがわざわざこんなアパートに来て、案内人として雇うなどと言い出すなんて。それほど中央政府は堅苦しいのだろうか?

「リチャードが言えば、なんでも言うこと聞いてくれそうなのにな」

 まあ、色々事情があるのだろう。そういうことにしておく。でないと――、一晩中リチャードについて考えてしまいそうだから。

綺麗な朝・リチャ正

  ――歪んだ世界から逃げるように目が覚めた。

 こういう夢を見た日は寝起きが悪い。そもそも目覚めた瞬間スフレのようにふわっと消えるというのに、今日はしつこく脳裏に残っていて気持ちが悪い。こういう朝を押し流すにはロイヤルミルクティーを飲むに限るのだが……。

「おはよう、リチャード」

 と、私の欲求を見越していたかのように差し出さるマグカップに私はそろそろと手を伸ばす。温かい。ここが現実だと私へ訴えかける心地よい温度だった。そのまま一口飲んで、小さく息をつく。

「……おはよう」

「ヒドい声だな。風邪か?」

「いえ」

 否定したその声もひどく嗄れきっていて、自分でも驚く。どんな酷い夢を見たのかと思い返そうとしてやめた。正義の声で綺麗に濯がれた頭に悪いものを入れるものではない。

「おまえって寝起き、本当に悪いよな。ちゃんと眠れてるか?」

「そういうところが魅力では?」

 と頭からかぶった上掛けの隙間から目だけ出せば、正義はどぎまぎとした声を上げる。からかいがいがある、といえばそれまでだが、それ以上に面白みを感じているのが、ここ一年二年の心境である。だが、私以外が正義をつつきますのは面白くない。まるで子どもがオモチャを盗られたとわめくような幼稚な執着心を恥ずかしいと昔は思っていたが、今はそこまで思わなくなった。そういう執着心を取り戻せたことを誇らしく思ったほどだった。

 そして、私は今、こうやって同じ部屋で寝起きできるぐらいには正義を信用している。これを特別だと彼に教える気にはまだなれない。特別だと教えたら、その意味を知りたがるのが人というものだ。

 でも、私はなんとなく予感している。

 そう私が教えたところで、正義は「そうなんだ。良かったな、誰と一緒の部屋で寝れるようになって」と朗らかに笑うだけだろう。ある感情の一点を超えないこの気の至らなさは、一種の才能だ。

 そのくせ、

「そうだな。でも、本当に眠れないなら言ってくれよ。俺、自腹で部屋取るし……」

「いて下さい」

 いらない気遣いだけは一流である。私はマグカップをサイドテーブルへ載せると、くるまった上掛けの中でどうにか髪を整え、ベッドから抜け出す。そして窓から外を眺めた。高層ビルがジャングルのように生い茂り、朝日を受けてまぶしく輝いていた。

「綺麗ですね」

「ここから見る風景、いいよな。キラキラしててさ」

 長らく思いませんでしたが、と言いさして私は緩やかに首を振った。意味もなく正義の不安を煽るものではない。

「ありがとうございます」

「お茶なら気にしないでくれよ。いつものこと……」

「素晴らしいタイミングでした」

 まったく秘書のままにしておくには惜しいほどの、と内心で付け加えて、少し柔らかい温度になったロイヤルミルクティーに口を付ける。それは甘くて、少しだけ渋かった。


人魚の宝石・リチャ正

 


「やかましくて大変だったんでしょう。ありがとうございました」

「いえいえ、とてもいい子でしたよ」

 と、俺は商談中預かっていたお嬢さんをお母さんにかえした。滅多に無いことだが、こうやってエトランジェで子どもの相手を俺がすることがある。どうしても預け先の都合がつかなくて、でも、ジュエリーを見たい、という方だって世の中にはごまんといる。ただ、宝石店は大人の社交場と思われているから、子連れでは来づらいと思っている方も多い。

 だがご安心あれ!

 エトランジェは子連れのお客様にも対応可能だ。それが売りな店でもないけれど、予約時に告げてもらえたら対応するし、別に当日でも対応する。俺は別に子ども嫌いではない……が、相手がうまいとは言い切れない。子どもにも性格があるし、合う合わないはやっぱりある。

 でも今日の子は俺とフィーリングがよく合った。お、昔会ったことあったか? ぐらいの勢いで。

「ほら、お兄ちゃんに『ありがとう』は?」

 お母さんのジャケットを引っ張ったり、キョロキョロとしていた女の子は、俺の前へ真っ直ぐやってくると、「ありがとうございます」と頭を下げてきた。素直で気持ちいい挨拶に俺も頬がほころぶというものだ。

「どういたしまして。楽しかったよ」

 そしてお見送りかと思いきや、「お兄ちゃんにだけ見せてあげる」と女の子はワンピースのポケットから取り出した何かを手で包み、俺にだけ見えるように開いてみせた。どれどれと俺が覗き込めば、そこには大粒のサファイヤが転がっていた。思わず息を呑んだが、いやいやまさか、である。よくよく見ればプラスティック独特の鈍い照りがあった。

「人魚の宝石なんだよ。きれいでしょ。ママに買ってもらったの、テストで満点取ったから」

「うん、とってもきれいだね」

 と、俺は言った。話を合わせたんじゃない。本当に綺麗だと思ったのだ。いまどきのオモチャ、侮りがたしである。この俺の反応に気を良くしたのか、ポケットをごそごそとやって、次に出てきたのはプニプニとしたしずく型のマスコットだった。いま、学校でものすごく流行っているキャラクターらしい。

「へー、それもかわいいね。お兄ちゃんが子どものときにもあったよ。女子がこぞってランドセルにつけてたなあ」

 確か、クラスの女子が集まってわいわいと見ていたような覚えがある。なんだなんだと近寄ると、『男子はあっち言って!』とか追い払われてしまう。それでも聞き耳を立てていると、『これ可愛い!』『うーん、今月は厳しい……』『どっちがいいかなあ、あ、おそろいにする?』なんて声が聞こえてきたもんだ。俺が小学生だったとき流行っていたキャラクターが、いまもこうして愛されているのを見ると心がぽかぽかとしてくる。ほら、ちゃんと時代が続いているって感じがして、嬉しい。

「わたしもつけてるの! また今度見せてあげる!」

「おう、楽しみにしとく」

 そうこたえると、女の子はにかっと笑ってくれた。そしてお母さんの手を握って、ご機嫌マックスで帰っていった。しかしその一方で落ち込んでいる男がいた。

 ――リチャードである。

「私には見せていただけませんでしたね……」

「へ、気にしてたのか!?」

 リチャードは答えなかったがが、しょんぼりと冷めたロイヤルミルクティーをすすっている。本人は美しいだの綺麗だのと言い寄られるのは大の苦手で嫌がっているが、一方で、こういう対応――端から眼中にないと相手にされないこと――にはまったく慣れていない。全人類の八割が『美しい』と褒めそやすだろう美貌の持ち主なだけに、『鼻にも引っかけられない』という状況自体が滅多にないのだろう。平凡な顔面代表の俺から言わせてもらえば、『それが普通』である。

「まあ、小学生だからな。お前の良さはまだ分からないと思うよ」

 リチャードにこんな慰めの言葉をかけた人間が、これまでこの世にいただろうか? 俺はいま、全人類初の暴挙に出たのかもしれない……。

「左様ですか」

「次に会うときはリチャードにも見せてくれるって。あ、じゃあ検索してみるよ」

 キッチンに置いてあるスマホでささっと『人魚の宝石』と検索してみる。アニメか漫画のアイテムかと思いきや、ヒットしたのは女児向けのアクセサリーサイトだった。その年頃の女の子が好きそうなものがぎゅぎゅーっと詰まったアクセサリーや雑貨がぎっしりと掲載されている。これはもう女児の心わしづかみだ。クラスメイトの女子が集まって騒ぐはずである。

「リチャード、これこれ。俺も買おうかな……」

 と、画像をクリックして俺は目が飛び出した。そのお値段、なんと六〇円也。百均より安い。

「やっす……てか商売になるのか……」

 思わず突っ込んでしまう安さだった。そこへ一緒に見ていたリチャードも嘆息を漏らす。

「ほう、綺麗なものですね。大切にしたくなるのも分かります」

「お前に綺麗って言われて、喜んでるよ……人魚の宝石は……」

「何を言っているのですか、あなたは。私は見せてもらえなくて落ち込んでいるというのに」

 と、唇を尖らせていたリチャードだったけれども、その目は笑っていた。見た目は堅物そうなのに、こういうウィットに富んだところが俺は好きだと思うし、こんな俺と長く付き合ってこれた理由のひとつだと思う。そしてなにより、

「どれほど心を揺り動かすか。それがもし大切さの尺度だとしたら……あなたも大したものですよ」

 と、さらりと言ってのけるから、ますます好きになる。リチャードは俺に『私に綺麗だと言いすぎる』というが、お前だって大概『俺が大切だ』って暗に言い過ぎだと思う。

 分かってないと思ってるんだろうか?

 俺だってそこまで鈍い男じゃない。その証拠に、今日の夕飯にはプリンを作って出すか、と思いながら、俺は商談の終わった客間を片付けにかかったのだった。






甘い煉瓦の家・リチャ正

    甘い煉瓦の家  ――横浜。  これまでホームグラウンドだった東京銀座を離れれば、リチャードが満足するようなデザートにはなかなか巡り会えないのでは……。  と雇われ秘書の俺は危惧していた。あの東京銀座から新宿のデパ地下を制覇し、商談でなくデザート談義をしに来るおばさま方にも...